ひまわりの種254 [日常]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『自由といっても、自分が心の底から「何を」したいと願っているのか。
自由とは遊ぶことではない。浪費(ろうひ)することではない。時間があることではない。休日が多いことではない。気分のまま、気ままに生きるのは 「放縦(ほうじゅう)」であって「自由」ではない。

自由とは、いかに、自分を高揚(こうよう)させていくか、自分自身の目的に向かっていくか -----そのなかにこそ、黄金(おうごん)のような「自由」がちりばめられ、光っているのです。

「受け身(うけみ)」になったら、どんな自由な環境(かんきょう)であっても、「不自由」な自分になる。「攻(せ)め」の一念(いちねん)になれば、どなん不自由な環境であっても、「自由」な自分になれる。

病気の人は、学校にいけない。戦争中の国の子どもも、学校に行けない。
行ける人は、行ける自由がわからない。行けることは最大の自由なんです。勘違(かんちが)いしてはいけない。』


確かに、自由といっても、考えると難(むずか)しいと思う。
よく、自由奔放(じゆうほんぽう)に生きているとかいうけれど、それが本当に自由かというと、わからない。また、だれもが自由奔放に生きられるかと言ったら、そうでもない。だったら、自由奔放に生きられない人は、自由ではないのか・・?
というと、それも、違(ちが)うと思う。

また、池田先生が言うように、受け身になったら、どんな環境でも不自由になってしまう。受け身でなく「攻(せ)め」にまわる・・!その時に、自由は勝ち取られていく。

人には、悩みがあり、さまざまな環境や境遇(きょうぐう)、さまざまな問題が立ちふさがっている場合もある。思うようにいかない場合も多いと思う。それを不自由と感じるのは、きっと、その人が「受け身」になっているからだと思う。

そのどんな悩みや環境、境遇(きょうぐう)であろうとも、攻めにまわった時から、自由は始まっていく。

けれど、それが、そう安々(やすやす)とできたら、悩む人はいないし、不幸になる人もいない。
さまさなな境遇や悩みが、解決できないから、人は悩み、苦しむ。

そして、不自由を感じる・・・。

不幸は、不自由の中にあるのかもしれない。

日蓮大聖人は、『南無妙法蓮華経を、となえることより楽しい遊楽(ゆうらく)はない!』と言った。

南無妙法蓮華経を、となえることは、楽しいことなのだろうか・・?

また、『南無妙法蓮華経は、歓喜(かんき)の中の大歓喜!』だと言う。

南無妙法蓮華経を、となえることが、ものすごい喜(よろこ)びとなり、南無妙法蓮華経をとなえること自体が、ものすごい幸せ・・・!

なぜだろうか・・・。

それは、おそらく、南無妙法蓮華経を、となえることによって、自分の中の弱き命、環境や悩みに支配(しはい)されてしまう「受け身」の自分が、打ち破(やぶ)られ、攻(せ)めの心、攻めの命(いのち)になっていけるからではないだろうか・・!

そして、攻めの境涯(きょうがい)になったならば、どんな環境であろうとも、自由を感じ、喜びを感じ、幸せを感じていく。そして、歓喜した自分の中の生命の力によって、さまざまな悩みを解決し、環境や境遇を変え、夢や希望に向かって、力強く進んでいける。

それは、まさしく、人間が心から望んでいることであり、人間が望む自由そのものだと思う。

それを、手に入れる、決定的で確実な方法が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっほう)の信仰なんです。

また、人生を幸せに切り開いていく自由を、手に入れることができるから、創価学会の人たちは、さまざまな悩みを解決し、困難(こんなん)を乗り越えて、幸せになっていけると、いうことです。

これが、創価学会が世界192カ国にも、広まっている理由の一つだと思う。

だから、確かに、自由といっても、いろいろ、ある・・。
自由奔放(じゆうほんぽう)に見える人が、本当に自由だともかぎらない。また、困難な環境や悩みに苦しんでいる人も多い。

けれど、そのどんな困難な環境や境遇であっても、どんな深い悩みであっても、打ち破り、解決し、夢や希望に向かって幸せをつかんでいくことのできる、最高最大の自由が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰には、ある!!ということです・・・。


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