ひまわりの種343 [幸せ]

先日、ディズニーのアニメ映画、「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、少女たちが、カーレースで、勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、ヒロインのヴァネロペは、カーレースに出たくても、出ることができない、不具合(ふぐあい)をもった存在として、生きている。

いわゆる、コンピューターの中の『バグ』というやつで、ヴァネロペがカーレースに出場すれば、ゲームに不具合が発生(はっせい)し、ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、ゲームの世界の『お菓子の国』は、崩壊(ほうかい)し、みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、自分が『バグ』であるために、お菓子の国から逃(に)げることもできず、死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、ヴァネロペをカーレースに出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、ヴァネロペをカーレースに出場させず、ヴァネロペを排除(はいじょ)して、いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、やってきたラルフは、気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、ヴァネロペは、カーレースに出場する。

やがて、お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、暴(あば)かれ、お菓子の国の王は、実(じつ)は、その国を乗(の)っ取った、悪(あ)しき「ウイルス」であったことがわかる。

ラルフとヴァネロペは、そのお菓子の国を乗っ取(と)った、悪のウイルスを倒(たお)し、ヴァネロペは、カーレースで勝利して、ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、悪のウイルスに支配(しはい)されていた呪縛(じゅばく)が解(と)け、お菓子の世界は、劇的に、美しく、平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、劇的に変化して、素晴らしい女王の姿(すがた)を現(あらわ)す。



ふと、考えるに、ヴァネロペは、自分が、このお菓子の世界で、不具合(ふぐあい)、すなわち、「バグ」として生き、みんなから蔑(さげす)まれ、のけ者にされて生きることもできた。


けれど、ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、選んだ・・!!


ゆえに、レースに出場して、偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、暴かれ、ヴァネロペはゴールして、勝利した。


これが、もし、ヴァネロペが、自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、諦(あきら)めて、レースに出なかったら、どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、何も変わらず、ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、一歩、踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、自分自身で、自分を、だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、お菓子の国の「偽りの王」、「悪のウイルス」に、だまされているのと同じで、自分の中の悪(あく)のウイルスが、自分の「本当(ほんとう)の姿」、すなわち「幸せ」を、出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、だまされていたら・・、ドラマもストーリーも、始まらない。


まして、幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!



仮(かり)に、自分が、不遇(ふぐう)であり不幸であったとする。

そうであったならば、環境や、周(まわ)りの状況、周りの人たちの見方や考え方に、甘んじている必要は、ないと思う。


試(ため)しに、映画・シュガー・ラッシュのように、その環境をつかさどる、国や世界、王のほうが、偽りの、悪しきウイルスであり、間違っていると、自分の環境や状況を、ゲームのような感覚(かんかく)で想像(そうぞう)してみたら、何かの新しい視点(してん)が、見えてくるかもしれない・・。

自分が、ヴァネロペのような立場(たちば)だと、想像してみたら、ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、いったん、解放されて、精神的(せいしんてき)に、楽(らく)になるかもしれない。

さらに、それを、きっかけにして、良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、人が持っている「宿命(しゅくめい)」というものは、生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた運命や境遇(きょうぐう)、そこから引(ひ)き起こる、さまざまな悲しみ、苦しみ、どうして自分だけがと思うような、辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、どうしても避(さ)けることのできない宿命のようなものを、仏法(ぶっぽう)では、『宿業(しゅくごう)』という。

それは、自分の中に宿(やど)ってしまっている『業(ごう)』であり、この「宿業」があるから、人は苦しみ、悲しみ、幸せになれないまま、不幸を背負(せお)って、生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、そんじょそこらのことでは、打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、その宿業を打ち破る、唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、創価学会(そうかがっかい)の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、『ご本尊(ほんぞん)』だと、言えます。

この『宿業』だけは、創価学会の人たちが、となえている、『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、本当にそうだから、しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。


※ちなみに、「ご本尊」とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、同時に、自分の生命そのものを、表現したものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。



人気のマンガ、『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、主人公の炭治郎(たんじろう)が、修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、「岩を切れ!」というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、炭治郎は、とても、岩が、刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、炭治郎が、岩を切るために、さまざまな苦心(くしん)で努力をしている時に、炭治郎の前に、少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、炭治郎に襲(おそ)いかかり、それ以来、二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、とても強く、炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、その少年の剣士は、鬼(おに)に殺された剣士の幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、登場して、炭治郎に、さまざまな「知恵」を、さずける。

炭治郎は、最後まで、二人の剣士が、幽霊であることには、気づかなかったが、二人のおかげで、成長していく。

やがて、まったく歯が立たなかった少年剣士と、互角(ごかく)に、戦えるようになっていき、鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、つかんでいく。

そして、炭治郎が、初めて少年剣士に勝ったとき、少年剣士は、にっこり笑って、消えていく。


そのとき、なぜだか、岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、なにか、すごい力(ちから)で、岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、そうは描かないで、ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、成長し、岩が切れたというのは、とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、思った。


思うに、岩と、炭治郎だけだったら、客観的(きゃっかんてき)にも、岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、二人の子供剣士の幽霊が、加(くわ)わることによって、何かが生まれ、人間の中にありながら、人間の意識を超(こ)えた『何か』の働きによって、岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。けれど、それを出すことは、考えもしない。

たとえば、思いもしない力(ちから)、思いもしない可能性、思いもしない希望、思いもしない才能(さいのう)、思いも及(およ)ばない知恵、


そして、思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、それを出すことのできる武器(ぶき)が、実は、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、ご本尊(ほんぞん)だと、たとえることが、できます。



前の、「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、宿業を断ち切ることのできる、マンガ・鬼滅の刃でいえば、岩を切ることができる、その、人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』が、「南無妙法蓮華経」であり、「ご本尊」であると言えば、わかりやすいかもしれない。

また、宿業を断ち切るためには、「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、鬼滅の刃の、二人の幽霊剣士のような役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』という言葉を、使う。

「妙法」とは、「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、「妙法の利剣」でないと、「宿業(しゅくごう)」という岩は、切ることができない。

それは、鬼滅の刃の中で、日輪刀(にちりんとう)という、年中日光を浴びている特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、鬼を倒(たお)すことができないのと、同じです。

普通の刀(かたな)で、鬼を、どんなに切っても、首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、「宿業」を「鬼」にたとえるならば、宿業という鬼は、「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、妙法の利剣、すなわち、「南無妙法蓮華経」でないと、断ち切ることができない!ということです。


やがて、妙法の利剣である「南無妙法蓮華経」で、宿業(しゅくごう)を断ち切ることができたならば、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、悪のウイルスの王を打ち破ったように、自分の世界が、不幸から、幸せの世界に、変わっていく。


悩みが、解決していく。夢や希望が、かなっていく!!ということです。


それが、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えると思います。


それは、あたかも、マンガ・鬼滅の刃の中で、炭治郎が、岩を、切ったように・・・!!


共通テーマ:日記・雑感