前の10件 | -

ひまわりの種343 [悩み]

この前、マンガで、「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、読みました。

アニメの方は、途中で、頓挫(とんざ)していましたが、マンガを読んだら、また、アニメも、見たくなりました。


その、マンガ・進撃の巨人の後半で、「始祖(しそ)の巨人」というのが、登場します。

始祖の巨人は、始まりの祖(そ)と書く通り、全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、巨人の先祖(せんぞ)、巨人の大元(おおもと)と考えられます。

その始祖の巨人から、進撃の巨人を含(ふく)め、超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、あらゆる巨人が誕生してきたということです。


また、「始祖の巨人」は、あらゆる巨人を、肉体的にも、行動的にも、精神的にも、意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、それゆえに、絶対的な力を有(ゆう)していると、考えられます。

だから、進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、始祖の巨人は、巨人たちを、意のままに操れるので、いちばん重要(じゅうよう)で、いちばん力があって、いちばんスゴイということになります。


ようするに、始祖の巨人は、いちばん最初であり、いちばん大元であり、巨人の力をつかさどる、源泉(げんせん)であり、根源の存在(そんざい)だということです。



始祖の巨人とは関係ありませんが、創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)の言葉に、

「久遠元初(くおんがんじょ)」

という言葉があります。

「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、宇宙と生命の根源というか、始祖の巨人のように、いちばん最初で、いちばん大元で、生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。

その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』というのですが、最も根源の法(ほう)をさとり、その力を自由自在に操(あやつ)ることのできる仏のことです。

イメージとしては、ちょっと違(ちが)いますが、始祖の巨人のようであり、生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。


その久遠元初の仏であり、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、実は、「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」なんです。

だれもが、想像(そうぞう)しそうな、釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる

「釈尊(しゃくそん)」

ではないんです。


釈尊は、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人の法(ほう)、すなわち、久遠元初の生命の法則によって、その久遠元初の法則を悟(さと)って、仏(ほとけ)になったとされます。


本来、上下関係はないと思いますが、位(くらい)としては、日蓮大聖人の方が、釈尊より偉(えら)いというイメージになります。

なぜなら、釈尊は、日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、成仏(じょうぶつ)したのだから。


たとえて言えば、進撃の巨人が、釈尊ならば、始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、思います。

進撃の巨人もスゴイですが、その進撃の巨人のさまざまな力も、始祖の巨人から授(さず)かったと、いえるからです。


だから、釈尊という仏(ほとけ)は、自受用報身如来である日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、たとえることができます。

それゆえに、釈尊の仏法では、人々の心が純粋(じゅんすい)で、擦(す)れていない時代の、比較的(ひかくてき)、仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、幸せにすることができません。

だから、現代のように、人心(じんしん)が乱(みだ)れ、悪(あ)しき思想が、はびこっているような時代の人々を幸せにする力は、釈尊の仏法には、ないんです。


釈尊が死んでから、二千年後の時代のことを、「末法(まっぽう)」といいますが、この末法の時代が、人心が乱れ、悪しき思想が、うじゃうじゃと、はびこっている時代です。


そして、現代が、その「末法(まっぽう)」の時代です。


ですから、その末法という現代の時代では、釈尊の仏法には、なんの効力(こうりょく)もなく、幸せにする力はありません。


それが、釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。


そして、その後の時代では、釈尊より、もっとスゴイ!もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、人々を幸せにすることは、できないんです。


その時代に必要となるのが、さっき言った、始祖の巨人です。

じゃなくて、イメージとしては、始祖の巨人のような存在である、根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。

すなわち、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、日蓮大聖人だということです。


ですから、現代では、すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、人々を幸せにすることはできず、より、大きな、より、根源的な力のある、日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、人々を、幸せにすることは、できない!ということです。


それは、マンガ・進撃の巨人の中で、始祖の巨人が、あらゆることを可能(かのう)にする絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、日蓮大聖人の仏法に、どんな人心が乱れた、悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、幸せにすることができる、より、大きく、より、絶対的な力がある!!ということです。


ゆえに、現代では、悩みを解決でき、夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、

『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』

しかない!ということになります。


その日蓮大聖人の生命の法則であり、宇宙(うちゅう)の法則であり、無限(むげん)の力が、創価学会の人たちが、となえている、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

なんです。


南無妙法蓮華経には、始祖の巨人のように、最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、あらゆる悩み、あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!ということです。


それが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。



譬(たと)え話(ばなし)にするならば、こんな感じだと思います。


久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人が、釈尊に頼(たの)みます。

「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、ちょっと、先に行って、仏法(ぶっぽう)を、広めてきてくれないか。」

釈尊は答えます。

「はい、いいですよ。でも、私は、本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか広められませんが、それでも、いいですか?」

日蓮大聖人は、言います。

「うん!いいよ。期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!その後は、ぼくが、本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」


と、こんな感じでしょうか・・。



先程、少し、話したように、また、譬(たと)え話にもあったように、釈尊の仏法は、「期間限定」なんです。

その期間が、どれだけか?といえば、釈尊が亡(な)くなってから、二千(2000)年間です。

その二千年は、とうに過(す)ぎています。

ですから、先程(さきほど)、言ったように、釈尊の仏法には、もう、効力(こうりょく)がないんです。


何の効力かといえば、それは、人を幸せにする力です。


だから、釈尊没後(ぼつご)、二千年が経(た)った現代では、釈尊の仏法をやっても、なんの効力もないし、幸せにもなりせん。

かえって、期限が切れているので、期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、害(がい)になってしまいます。

すなわち、現代、釈尊の仏法をやったら、幸せになるどころか、不幸になってしまうということです。


それが、現代、一般的に広まっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、観光(かんこう)仏教です。


ですから、お葬式(そうしき)などで、葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、お経(きょう)を読んでもらったところで、真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、不幸にしてもらっているようなものです。



マンガ・進撃の巨人に戻ると、やはり、最(もっと)も重要なポイントは、「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。

その始祖の巨人の力を、手に入れることが、できるかどうかが、勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。

そして、その始祖の巨人は、進撃の巨人の、以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、始祖の巨人の持ち主であった王家の女性を食ったことにより、始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、所有(しょゆう)していた。

すなわち、エレンの父は、進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、自分の中に所有していたということです。

その二つの巨人の力は、エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、エレンに引き継(つ)がれた。

すなわち、エレンが、進撃の巨人の力も、始祖の巨人の力も、もっているということです。

だから、最も重要な、「始祖の巨人」は、エレンが持っている!!

ということです。


そうなると、エレンは無敵(むてき)ではないか!と考えられる。

なぜなら、巨人たちを、意のままに操(あやつ)ることができる『始祖の巨人』を、自分の中に持っているからです。


ところが、そう、うまくはいかない・・。


始祖の巨人の力を使うためには、条件(じょうけん)があり、その条件をクリアしないかぎり、始祖の巨人を持っていても、その力(ちから)を使うことができない・・。


ちょうど、どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、使い方を知らなければ、なんの役にも立たないのと同じです。


宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、いうものです。


エレンの中に、無敵であり、無限の力である、「始祖の巨人」の力はある。


けれで、その始祖の巨人の力を、使うことができない!


自分の中に、その無限の力があっても、使うことができなかったら、無(な)いのと同じです。

それが、エレンの状態(じょうたい)です。


では、その無敵の力である、始祖の巨人の力を使うには、どうしたらいいのか。

そのためには、「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、接触(せっしょく)しなければならない!!

王家の血を引く巨人が、始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、その王家の血を引く巨人と接触することによって、はじめて、鍵が開(あ)き、始祖の巨人の力を、使えるようになる。


だから、エレンは、始祖の巨人の力を使うために、王家の血を引く巨人を、求(もと)めていきます。


その「王家の血を引く巨人」が、エレンの腹違(はらちが)いの兄である、『ジーク 』です。

そこで、エレンとジークは、始祖の巨人の力を行使(こうし)する目的(もくてき)のために、なんとしても、兄弟の接触を、果(は)たそうとします。

そして、始祖の巨人の力の行使を避(さ)けようとしている、もろもろの勢力(せいりょく)と、壮絶な戦いを、繰(く)り広げるわけです。



どんなにスゴイ力(ちから)があっても、使うことができなかったら、何の意味もない。


どんなに大きな可能性があっても、その可能性を、出すことができなかったら、無いのと同じです。


人間の中にも、無限の力は、ある。

人間の中にも、無限の可能性は、ある。

エレンが、始祖の巨人の力を持っていたように、それに変(か)わるような、「幸せになる力」というものが、あると、思う。

幸せになる力があるということに抵抗(ていこう)を感じるにしても、どんな人でも、幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!と思う。

たとえば、宝くじに当たって、億万長者(おくまんちょうじゃ)になることだってある。

仮に、99%、宝(たから)くじに当たって億万長者になることはないとしても、だからといって、無(な)いとは、いえない。

当(あ)たった人は、現実にいるのだから。

ということは、

人間は、幸せになる可能性を、持っている!!

ということだと思う。

また、そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような話しでなくとも、必死に努力して、運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、幸せになる人は、山ほど、いる。


ということは、人間は、やはり、幸せになる力を、持っている!ということです。


それは、可能性を無限に広げれば、進撃の巨人の中のエレンが、始祖の巨人の力を持っているのと、同じようなことだと、思う・・。


そして、エレンと同じように、その力を、出すことができるか、できないかが、鍵(かぎ)となる。


エレンは、始祖の巨人の力を持っている。

しかし、その力を、使うことが、できない・・。


なぜか?


始祖の巨人の力を使うためには、それを使うために、『縁(えん)』が、どうしても必要となるからです。

『縁』とは、何かを起こす「きっかけ」となる対象(たいしょう)のことですが、その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、始祖の巨人という無限大の力を、使うことが、できない。

マンガ・進撃の巨人の場合、その『縁』が、王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、ジークだと、いえます。


それと同じように、人間も、幸せのなる無限の力を、持っている。

幸せになる、無限の可能性を、持(も)っている。


そして、その、幸せになる無限の力を出すためには、エレンと同じように、『縁(えん)』が、必要となってくるんです。


その『縁(えん)』とは、何なのか?


幸せの縁とは、何なのか?


その幸せの縁の中で、最も、強く、最も、大きく、究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、『幸せの縁』が、創価学会の人たちが、日々、祈(いの)っている、『ご本尊(ほんぞん)』なんです。


ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、そのまま表現して、書き表(あらわ)したものですが、その「仏の生命」が、根源的な幸せの力であり、最も大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)するエネルギーのようなものだと、思います。


人間には、幸せになる力が、ある・・!

その幸せになる力を引き出すためには、『縁(えん)』が必要となる。

その幸せを引き出す縁が、「ご本尊(ほんぞん)」だということです。


そして、もう一つ、重要なことが、あります。


幸せになる縁であるご本尊に、ただ、接(せっ)すれば、幸せの力を引き出せるかといったら、そんなことは、ありません。

それだったら、まだ、簡単(かんたん)かもしれない。

けれど、違います。

ご本尊から、幸せになる力を引き出すためには、方法(ほうほう)がある・・!

それが、ご本尊に、

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!

ということです。

これ以外、ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、ありません。


南無妙法蓮華経とは、仏(ほとけ)の生命の名前です。

その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、そのまま、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、含(ふく)まれているということです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえた時、呼(よ)ばれて、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、出てくるわけです。


進撃の巨人でいえば、始祖の巨人の力をつかうためには、「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、それ以前に、自分が「始祖の巨人の力」を、所有(しょゆう)していなければならない。

始祖の巨人の力を所有していないものが、王家の血を引く巨人と接触しても、何も起(お)こらない。


それと同じように、自分の中に、「幸せになる無限の力」を、所有しなければならない。

その幸せになる無限の力を所有するということが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ということになるんです。


南無妙法蓮華経をとなえるということは、その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、「幸せになる無限の力」を所有することに、なっていくんです。


南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、自分の中に、幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、その瞬間、自分の中に、幸せの無限の力が、所有されるんです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえないと、いけないんです。

結論(けつろん)からいうと、本当の幸せを、つかみたいんだったら、南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、ありません。

ほかの何をやっても、無理(むり)です。


それほど、南無妙法蓮華経は、スゴイということです。


マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の中に、始祖の巨人を、所有したことになる。

進撃の巨人でいえば、南無妙法蓮華経をとなえ、始祖の巨人を所有した状態で、「王家の血を引く巨人」という『縁』、

すなわち、『ご本尊』という無限の幸せを引き出す『縁』に接することによって、自分の中から、幸せが、発現(はつげん)してくる。


そう、言えると思います・・・。



マンガ・進撃の巨人では、最終的に、エレンは、「王家の血を引く巨人」である、兄のジークとの接触を果(は)たし、始祖の巨人の力を、行使(こうし)できるようになる。

そして、エレンの目的のために、始祖の巨人の力を行使したとき、なぜだか、エレンは、少年の姿(すがた)に戻(もど)る。

そして、少年の姿に戻ったエレンは、叫(さけ)ぶ。


『自由だ!!!』


それは、人間が持っている、本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。


人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、幸せへの希望、さまざまな不幸の足かせを、取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。

エレンの姿が、少年に戻ったというのは、それが、生命(せいめい)の上で、可能になったということではないだろうか・・。


自由とは、なにものにも束縛(そくばく)されない喜(よろこ)びのようなものだろうか。

それは、生命が、舞(ま)い上がるような感動!!

おそらく、それは、生命が感じる、最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。


創価学会では、あるいは、仏法では、

『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』

だと、いう。

それは、言い方を変えれば、

『自由の中の、最大の自由!!』

ということだと思う。

南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の生命が、解(と)き放(はな)たれる。

それは、幸せの力を、自由につかえるようになる!ということではないだろうか。


マンガ・進撃の巨人にたとえれば、始祖の巨人の力を、使えるようになる。

始祖の巨人の無限の力を、行使できるようになる。

すなわち、幸せの無限の力を使って、さまざまな悩みを解決し、さまざまの夢や希望をかなえ、無限に、幸せを、つかんでいける!ということだと思う。


だから、南無妙法蓮華経は、「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。



ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、自分の中から、久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、湧(わ)き上がり、その生命の力を、使えるようになる。

そして、自分の生命は、少年や少女が、夢を、かなえるような生命状態に、変(か)わっていく。


歓喜の中の大歓喜は、そんな風(ふう)に、譬(たと)えられるかもしれない。


そして、その生命状態は、エレンが、始祖の巨人の力を、行使できるようになったのに似(に)ている。

なぜなら、その大歓喜の生命状態には、困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、強い強い生命力があるので、さながら、それは、無敵のように思えるからです。


だから、負けない!

だから、勝っていける!!

悩みを解決し、希望を、叶(かな)えていける。


そして、自分らしい、素晴(すば)らしい、最高の幸せを、つかんでいける。


それが、

「ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる!」

ということかもしれない。


あたかも、それは・・、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、始祖の巨人の力を行使した時、少年の姿(すがた)に、戻り、

『自由だ!!!』

と、叫んだように・・。


共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種342 [悩み]

ディズニーのアニメで、「シュガー・ラッシュ」という映画があります。

この物語は、ゲームの世界のキャラクターを、擬人化(ぎじんか)したような物語で、
ゲームセンターのモニター画面の中で動いているキャラクターが、いかにもその時間、働いて生活しているような構成(こうせい)になっています。

その中でヒロインとして登場するのが、少女ヴァネロペです。

ヴァネロペは、お菓子の世界に存在(そんざい)し、その世界では少女たちがカーレースで勝敗を競(きそ)っている。

簡単(かんたん)に言えば、ゲームセンターのカーレースのゲームの世界に生きているという設定(せってい)です。


けれど、ヴァネロペには、不具合(ふぐあい)がある!!


コンピューターでよく言う 「バグ」 ということでしょうか・・。


ヴァネロペは、そのゲームの世界の不具合であり、マイナスの存在だと扱(あつか)われている。

そのために、ヴァネロペは、他の人たちから「のけ者」にされ、カーレースに出ることもできない。

みんなから、蔑(さげす)まれ、嫌(きら)われる存在として生きている。


ある時、別のゲームの世界から迷(まよ)い込んだラルフは、
お菓子の世界で、そのヴァネロペと出会う。

そして、ラルフが持ってきたメダルによって、ヴァネロペは、カーレースの出場の権利(けんり)を得る。

しかし、お菓子の世界の王は、なぜだか、執拗(しつよう)にヴァネロペのレースへの出場を阻(はば)もうとする。

ヴァネロペには「不具合」、バグがあり、彼女がカーレースに出場すれは、このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、壊(こわ)れてしまい、このカーレースのゲーム機自体が廃棄(はいき)され、お菓子の世界の住民、そしてヴァネロペ自体も不幸になる!

というのが表向(おもてむ)きの理由です。


けれど、実は、別の理由があった。


ヴァネロペは王の妨害(ぼうがい)によって、窮地(きゅうち)に追い込まれるが、決して屈(くっ)しない勇気と行動、そしてラルフの助けを得(え)て、お菓子の国のカーレースに出場する。

ここでも、ヴァネロペをゴールにたどり着かせないように、王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。


それは、なぜなのか???


実は、「王」というのは偽(いつわ)りで、その王の正体(しょうたい)は、お菓子の国のゲームの世界を乗っ取った、 悪(あ)しき「ウイルス」 だからです。

この「ウイルス」である偽りの王によって、お菓子の国の世界は支配(しはい)され、
そのことによってヴァネロペは不具合となり、この世界から排除(はいじょ)された存在になっている。

ヴァネロペは、実(じつ)は、このお菓子の世界を元の世界に復活(ふっかつ)される重要な存在であり、ヴァネロペがゴールした時、この世界を復活させる 「何かが起こる!!」 ということです。

だから、ウイルスである「王」は、ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。

しかし、ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、ウイルスである王は敗れ、消えていく。

そして、ヴァネロペは、とうとうゴールにたどり着く!!

その時、いままでウイルスである王に支配されていたお菓子の国のゲームの世界に、劇的(げきてき)な変化がもたらされる。


ヴァネロペ自身も劇的に変化し、「女王」の姿(すがた)をあらわす。


実は、ヴァネロペは、お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!


そして、ウイルスによって記憶(きおく)を消されていた住民たちも、
記憶を取り戻し、女王に深く、お詫(わ)びをする。



考えてみると、不具合により皆から嫌(きら)われ、のけ者にされていたヴァネロペも、女王であるヴァネロペも同じ人物です。

ヴァネロペは、不具合で皆(みな)から嫌われ、のけ者にされている世界で、そのまま生きていくこともできた。

けれど、ヴァネロペは屈(くっ)せず、あきらめず、希望と勇気と挑戦によって、自分のいる世界を、自分が女王として堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。


人間も同じなのではないだろうか・・・!


仮(かり)に、今、自分がいる環境が、不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。

けれどその環境(かんきょう)は、アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、偽りの世界であり、ウイルスによって支配された環境だと考えることはできないだろうか・・・?

そう考えた時、今、自分が、かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、仮(かり)の姿であり、偽(いつわ)りの姿だと考えることはできないだろうか・・・?

そして、ヴァネロペのように、希望と勇気と挑戦によって、道を切り開きゴールした時、自分の世界が、自分が、王者のように輝(かがや)く環境へと変わっていくと、
とらえることができないだろうか・・・?


創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則(ほうそく)を説いています。

「一念三千」とは、一念(いちねん)、すなわち心(こころ)の違いによって三千の違(ちが)う世界ができあがる!という生命の法則です。

三千の心の違いによって、未来の世界は、それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。

自分の心によって、世界が変わり、自分の心に合った世界が、そこに存在していくことになる。

ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、人は三千の違う世界の中から、自分の心で、そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!と、とらえることができます。

その三千の世界の中には、ヴァネロペのように、自分が、のけ者にされ、蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている世界もあるかもしれない。

また、これもヴァネロペのように、自分が女王、あるいは王のように、堂々と生きている世界もあるかもしれない。


一念三千の法則から考えるならば、
人は、自分がいく世界を、自分の心によって選んでいる・・!!


と言えます。


楽観的(らっかんてき)にポジティプに考えれは、人は、未来の三千種類の世界の中から、自分が行く世界を選ぶことができる!!と、とらえることもできます。


それが、生命における『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。



確かに、未来はわからない・・・。

未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。


不幸になる可能性も、
幸せになる可能性も・・・。


それを選び、つかむことのできる法則が、先程(さきほど)から話している「一念三千の法則」ですが、この、「一念三千の法則」を、

いったい? どうやって使っていくのか・・??

どうやって、自分の人生に生かしていくのか?

そして、この「一念三千の法則」を、どうやって、ものにし、人生を勝利していけるのか・・・?


それが、問題です。


実は、この「一念三千の法則」を、現実に動かし、現実に結果を出し、現実に幸せになっていける、究極(きゅうきょく)の力であり方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


けれど、おそらく、だれでも思うのではないか?と思うのが、いくら一念三千の法則を説(と)いても、そんなものは、単(たん)なる机上(きじょう)の空論(くうろん)にすぎないのではないか!ということです。


問題は現実だからです。


現実を変えられなければ、何の意味もない。


現実の悩みを解決できなかったら、そんなものは、よくある言葉の遊びでしかない。


そして、現実の夢や希望を、かなえていけなかったら、いったい、一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。


けれど、創価学会が実践(じっせん)している南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰(しんこう)は、言葉の遊びではない!!


『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、現実を変える、ものすごい力(ちから)なんです。

南無妙法蓮華経は、一念三千の法則を現実のものとする
『秘宝(ひほう)』なんです。

幸せをつかむ究極の法則であり、未来を幸せに変える究極の力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』なんです。

だから、創価学会の、南無妙法蓮華経を
となえる仏法(ぶっぽう)を実践していった時、


自分の世界が、環境が、大きく変わっていく。


自分自身の境涯(きょうがい)が、大きく変わっていく。


そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!



昔、アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星(わくせい)ソラリス』という映画を見ました。

その世界では、自分が深く思い願っている存在が、現実の姿(すがた)をして、具現化(ぐげんか)され、あらわれてきてしまう。

すでに自殺して亡(な)くなり、いるはずのない妻(つま)が具現化し、さまよい、主人公は苦しむ。

その果(は)てに、自分が子供のころから、愛してやまない故郷(こきょう)、地球の、我(わ)が家と家族、その土地と自然が、惑星ソラリスから、出現(しゅつげん)してしまう・・・。


この物語は、SFの架空(かくう)の物語ですが、人間の『一念(いちねん)』には、
「こころ」を、具現化していく力(ちから)が、あると思う。


人は、自分の夢や希望、願いを、現実に、実現してきた・・。

それは、人間のこころには、夢や希望を、実現していく力が、
『ある!!』 ということです。

そして、その、人間の『こころ』の力が、明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、
夢や希望が、かなっていく・・・!!

しかし、その「こころの力」が、不明瞭(ふめいりょう)で、さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、発揮されなくなってしまっている。

そのために、さまざまな苦しみや悩みが生(しょう)じて、人は、不幸に沈(しず)んでいく・・・。


そう、言えると思います。


しかし、「こころ」における、さまざまな障害や不純物が、取り除(のぞ)かれたならば、「こころ」は、力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、夢や希望が、かなっていく。


それが、「こころの力」ではないかと、思われる。


そして、「こころ」から、障害や不純物を取り除き、こころの力を、無限大に発揮していく力が、さきほど話した、 「南無妙法蓮華経」 です。

そして、南無妙法蓮華経の力によって解放(かいほう)された、「こころの力」によって、惑星ソラリスのように、幸せの世界が出現してくる。

ヴァネロペのように、貧(まず)しい姿から、女王の姿を、あらわす。


それが、南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経を、となえることだと、思います。




昔、創価学会は、貧乏人と病人の集まりだと言われた。


その人たちが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践することによって、どうなっていったかといえば、貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、病人は健康になっていった。

そして、ことごとく、創価学会の人たちは、幸せになり、人生を勝利していった。

それは、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、自分が、のけ者にされ蔑(さげす)まれている世界にいたヴァネロペが、女王となり、その世界を幸せに変えていったのに似(に)ている。


そういう変化を、現実のうえで可能にしてきたのが、創価学会だとも言えます。


いまでは、創価学会は世界192カ国に広がり、その世界中の人たちの悩みを解決し、夢や希望をかなえる大きな大きな力となって、その人たちの環境を変え、自分を変え、その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。


たとえば、道が何本にも分かれた分岐点(ぶんきてん)があるとする。

そして、その道の先(さき)に何があるか、すべて見えているとします。

そうしたならば、人は、わざわざ自分が不幸になる道を進みはしない。


自分が行きたい道、自分が幸せになる道、自分が勝利していける道を、進むでしょう。


ところが、人は人生の道の先に、何があるか、わからない・・。

だから、途方(とほう)にくれたり、あきらめたり、絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。


そして、敗れていく人も多くいる・・・。


創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰は、いくつも分かれた道の先に、何があるのか、見えているのに似(に)ている。

見えていれば、幸せになる道を進んでいける。
不幸になる道を避(さ)けることができる。


そして自分の夢や希望をかなえて勝利していける。


そういう生き方ができるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。


もちろん、幸せになっていくために、さまざまな努力、挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。

また、アニメ「シュガー・ラッシュ」のヴァネロペのように、それを妨(さまた)げる、さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。

ある意味、幸せにさせまいとする、さまざまな勢力(せいりょく)が自分の前に立ちはだかることもあるかもしれません。

けれど、ヴァネロペのように、希望を持ち続け、勇気と挑戦によって、立ちはだかる苦難(くなん)を乗り越えていったとき、必ず幸せになっていけるのが、創価学会の信心です。

また、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践していくことによって、自分の中から自然(しぜん)に、その「勇気」と「希望」を湧(わ)き上がらせていくことができる!!

その、自分の中から湧(わ)きあがってきた勇気と希望によって、どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え、勝利していけるようになっていく!!


その大元(おおもと)のエネルギーが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。



南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、環境とか境遇(きょうぐう)とか、運命とか宿命とか、それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の上にある力(ちから)であり法則だと言えます。

運命や宿命(しゅくめい)、軋轢(あつれき)や障害の、『上』にある力であるがゆえに、悩みや困難(こんなん)を乗り越え、夢や希望を、かなえていく力(ちから)が、ある!!
ということです。


それが、『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと言えます。


たとえば、話しのよくわかる、良い社長がいたとします。

会社内に、さまざまの問題があり、ある社員が悩(なや)んでいる。

同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、さまざまな思惑(おもわく)や軋轢(あつれき)があって、まったく解決しない。

けれど、その話しのよくわかる、良い社長に話し、訴(うった)えていったなら、希望や要望(ようぼう)がかなっていく可能性が高い。


今度は、ブラック企業(きぎょう)で、社長も、頑固(がんこ)で、話しのわからない社長だったとする。

けれど、その国の王がいて、その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、善良(ぜんりょう)な王だったとする。

その優秀な国の王に、問題を訴え、伝えることができたなら、国が動き、ブラック企業の問題が解決できる可能性(かのうせい)もでてくる。


こんどは、国の王も、暴君(ぼうくん)で、どうしようもないような王だとする。

しかしその国の王の上には、 「宇宙(うちゅう)の王」 がいて、その宇宙の王は、
大変、優秀で、ものわかりの良い、素晴(すば)らしい王様だったとする。

宇宙の王から見れば、地球の一国の王など、小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。

だから、その素晴らしい宇宙の王に話しを伝え、訴えることができたなら、宇宙の王が動き、暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、民衆の希望や願いが、かなっていく可能性も強くなる。


その『宇宙の王』が、
南無妙法蓮華経であり
南無妙法蓮華経の力だと、
たとえることができます。


だから、南無妙法蓮華経をとなえることは、願いや祈りを、宇宙の王に伝え、訴えることになり、宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、考えることができます。


宇宙の王に訴え、宇宙の王を動かすのだから、
願いや祈りが、かなわないわけがない!!!


宇宙の王は、地球のちっぽけな王とは比(くら)べものにならないほど広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、考えられます。

その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、さまざまな悩みや問題も、悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、思われる。

それが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ことだと、たとえることができます。



ヴァネロペは、あきらめなかった。

絶対に負(ま)けなかった。

絶対に希望を捨てなかった。

それと同じように、南無妙法蓮華経を、となえることによって、絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を湧(わ)き上がらせていくことができる。

その「生命力」は、強い強い「心(こころ)」、希望の心、幸せの心となって、その人の人生を開花(かいか)していく。

その生命力、強い強い心は、悩みを解決し、困難を乗り越えさせ、夢や希望をかなえる力(ちから)となっていく。

さきほど話した、「一念三千の法則」によれば、その強い強い心、幸せの心によって、
世界が幸せに変わっていく。


自分にとって、希望に満(み)ちた世界に変わっていく・・・!


それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。


それはあたかも、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、虐(しいた)げられ、のけ者にされている世界から、自分が女王となり、堂々(どうどう)と生きていく、
幸せと希望の世界に、変えていったように・・・!!


共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種341 [悩み]

「シュタインズ・ゲート」というアニメがあります。

この「シュタインズ・ゲート」という物語は、映画やドラマ、アニメなどではよくある、「タイムマシン」を題材にした話しですが、携帯電話を使って、過去にメールを送るというのが、斬新(ざんしん)かもしれない。

主人公の岡部は、ひょんなことから、過去にメールが送れる装置(そうち)を発明する。

しかし、過去にメールを送るたびに、過去が変わり、そのことによって現在も大きく変わる。その繰(く)り返しの中、最終的には、取り返しのつかない大変なことになってしまうという、物語です。

たった一通(いっつう)のメールであったとしても、過去にメールが送れるとしたら、ひとりの人生、あるいは世界を大きく変えることになってしまう。


場合によっては、人の生死を変えることすら可能となってしまう。


その繰(く)り返しの中、世界が大きく変わり、大きな事件をもたらす結果となってしまう。

このアニメの中では、このように説明している。

ひとつの人生、あるいはひとつの運命、ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに形成(けいせい)された世界を、ひとつの『世界線(せかいせん)』ととらえる。

人間の人生、世界の成り行きを、ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると考えるわけです。

ところが、タイムマシンを使い、過去に行って、Aという人を殺したとする。

そうすると、その世界は、今まで、Aという人間が存在する「世界線」であったものが、Aという人間が存在しない、別の世界線へと移動する。


「世界線」が変わるわけです。


そうすると世界の歴史や、さまざまな人間の人生までも変わってしまう。そう、とらえています。

そして、そのことを 『世界線が変わる』 と表現しています。

主人公の岡部が、過去にメールを送ることによって、その「世界線」が変わり、その繰り返しの中、とんでもない事件に巻(ま)き込まれるということです。

やがて岡部は、仲間とともに、メールではなく、人間の記憶(きおく)を過去に送る装置(そうち)を開発する。

肉体は無理でも記憶を過去に送ることができれば、ほとんどタイムマシンと同じようなことができるということです。

そのことを、このアニメでは、「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」と表現しています。

そして、その装置をめぐり、岡部の幼(おさな)なじみである、マユリが殺されてしまう。

岡部は、マユリを助けるために、タイムリープ・マシンを使い、過去へと戻(もど)り、マユリを救(すく)おうとする。

マユリを逃がし、別の場所へと逃避(とうひ)する。しかし、なぜだか、同じ時刻になると、マユリは殺されてしまった。

そして、岡部は、そのたびにタイムリープを繰り返し、過去に戻るが、どんな手をつかっても、どんな場所に逃げても、暗殺者に殺されなかったとしても、暗殺者が現(あらわ)れなくても、マユリは同じ時刻になると、必ず死んでしまった。


まるで、運命に殺されるかのように・・・。


このアニメの中では、このように説明しています。

一本のロープを天井に吊(つ)るしたとする。一本のロープは、一見(いっけん)、一本に見えるけれども、実際は、細い糸が何本も何本も重(かさ)なって、一本のロープを形成(けいせい)している。

その一本一本の細い糸が、「世界線」だというのです。

一本一本の細い糸は、それぞれが独立(どくりつ)した糸ではあるけれど、それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、必ず、天井に吊るした到達点である『一点』にたどり着く。

一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、かりに「世界線」が違ったとしても、最終的には、同じロープの到達点、「一点」にたどり着いてしまう。

すなわち、最終的な結果を変えることは、できない!ということです。

ゆえに、岡部が過去に戻り、どんなにマユリを助け、行動を変えても、最終的な到達点である「マユリの死」を変えることができない・・・!


このような、どうしても避(さ)けることのできない宿命(しゅくめい)のようなものを、創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、「宿業(しゅくごう)」といいますが、小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、どんなにお金を使っても、ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、変えられないのが、悪(あ)しき運命といえる「宿業(しゅくごう)」です。

では、宿命とも宿業ともいえる、「マユリの死」を、どうやって回避(かいひ)し、変えていくのか・・・?

このアニメでは、こう説明している。

たとえ過去に戻り、世界線を変えたとしても、その世界線が、一本のロープのような一点の結果に向かう世界線であるならば、結果を変えることはできない・・!

宿命とも運命ともいえる、その変えられない結果を変えるためには、一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、別の違うロープに束ねられた世界線に移動するような大きな変化を、もたらさなければならない。

すなわち、別の、もう一本のロープに飛び移(うつ)るような、大きな、劇的(げきてき)な変化が必要となる。

その大きな劇的な変革(へんかく)を成し遂(と)げないかぎり、「マユリの死」という結果を変えることは、できないと・・。

そして、その劇的な変化を起こすために、この物語は展開(てんかい)されていくわけです。


かりに、世界線という運命の糸を、少し変えることができたとしても、その到達点である結果を変えることは、できない・・・。

先ほど言ったように、 このようなどうしても変えられない悪(あ)しき宿命を、宿業(しゅくごう)と言いますが、この「宿業」を打ち破(やぶ)り、変えないかぎりは、未来は開けない。

人は、この宿業があるから、苦しみ、敗れ、不幸に沈(しず)んでいく・・と言えます。

そして、その宿命を変えるためには、世界線の集まった一本のロープから、別の世界線のロープに飛び移るような、劇的な変革が必要となる・・・!


実はその、世界線の集まった、宿業という結果を変えられない一本のロープから、宿業を打ち破り宿命を変えることのできる別の世界線のロープに飛び移るようなことを可能にする、唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、創価学会(そうかがっかい)が実践する、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰であり、その仏法の実践活動である創価学会の活動なんです。

南無妙法蓮華経とは、南無妙法蓮華経という法則(ほうそく)であり力とは、この宿業を打ち破り変えることのできる力(ちから)であり、法則だと、 言えます。

創価学会の人たちは、その『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』を実践しているから、幸せになっていけるんです。

どうしても変えられなかった宿業を打ち破り、宿命を転換(てんかん)して、幸せをつかんでいけるんです。

そして、そういう偉業(いぎょう)を創価学会のひとりひとりが、ことごとく!やってきたのが、創価学会の歴史です。

だから、創価学会は発展しているのであり、世界192カ国に広がっているんです。


別に、タイムマシンがなくても、世界を、平和に、幸福に、変え、ひとりひとりの悩みを解決し、夢や希望をかなえさせ、最高の幸せをつかませてきたのが、創価学会です・・・。

あえて例(たと)えるならば、このアニメでいう、世界線の集まった一本のロープから、別の世界線のロープに飛び移るような変化を、現実の世界で実現してきたのが、創価学会だと言うこともできます。

また、それを可能にするのが、創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。



このアニメでは、過去を変えることによって、未来を変えていった。

けれど、未来を変えるのだったら、別に、過去を変える必要はない・・。

すなわち、「今」を変えればいいわけです。

そして、その「今」を劇的に変えていく、究極(きゅうきょく)にして最大の力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。


創価学会が実践している、その「仏法(ぶっぽう)」では、『一念三千(いちねんさんぜん)』という法則を、説いています。

『一念三千』とは、心の違(ちが)いによって、違う三千の世界ができあがる!という生命の法則です。

どういうことかというと、もし、本当に「こころ」を変えることができたとしたら、その人の世界は変わっていく!ということです。

そしてその「こころ」を本源的(ほんげんてき)に、本当に変えていける唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。

その南無妙法蓮華経をとなえているから、創価学会の人たちは、心を変え、そのことによって自分の世界を変え、不幸から幸せへ、絶望から希望へと、人生と未来を変えていけるわけです。


このアニメの物語は、架空(かくう)の物語であり、ありえない話しです。

けれど、仏法で説く「一念三千」の法則の、説明に利用することは、可能です。

創価学会の人たちが、ご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経をとえなえていく時、南無妙法蓮華経とは、生命を、心を、本源(ほんげん)から劇的に変革していく力なので、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、その人の「こころ」が、パッと変わる。

簡単に言えば、不幸だった心が、幸せに変わるわけです。

一念三千の法則から言えば、こころが変わるということは、その人の世界が変わる!ということです。

シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、「世界線」が変わる!わけです。

心が変わることによって、いままで不幸なる世界線にいたものが、別の、幸せをもたらす世界線に変わる!わけです。

かりに、その変化が最初は目だたない、ごくわずかの違いだったとします。

けれどそれでも、最初にいた不幸なる世界線には、その人はもう、いない!と考えられます。

こころが変わったことによって、その人の世界が変わり、世界線が変わったと考えるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、また創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる信仰をやっていくことによって、また「こころ」が変わり、世界が変わっていく。その時点でまた世界線を移動し、「世界線」が変わるわけです。

そして、その世界線が変わった世界で、また南無妙法蓮華経をとなえていった時、また「こころ」が変わり、世界が変わっていく。そしてまた世界線が変わっていく。

幸せの方向へ、幸せの方向へ、どんどん世界線を移動していくと、考えることができます。

そして、その人のいる世界線は、どんどん分岐(ぶんき)していき、最初にいた「不幸なる世界線」とは、遥(はる)かに、かけはなれた「大いなる幸せの世界線」に移動している!!と、とらえることができます。


だから、
幸せになっていける。
勝利していける。
最初の不幸なる自分とは、かけ離れた、素晴らしい幸せをつかんでいけるわけです。

そして、そういう変化を現実の上で可能にするのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。


そして、最も重要なことは、この、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』の信仰は、宿命を変え宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、唯一(ゆいいつ)の方法だということです。

ゆえに、どうしても変えることのできない宿命、宿業(しゅくごう)が立ちふさがったとしても、シュタインズ・ゲートの中で言う、一本の、宿命を変えられない世界線のロープから、運命を変え宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、別の世界線のロープに飛び移るような劇的な変革を、もたらすことができる。

そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、新(あら)たな、最高の幸せと勝利を、つかんでいける!!


創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰が、『宿命転換(しゅくめいてんかん)』『人間革命』を、可能にするわけです。


それはあたかも・・、アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、主人公たちが、マユリを死から救うために、世界線を大きく変える、劇的な変革を、もたらしていったように・・・。


共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種340 [悩み]

インドの大思想家である、ヴィヴェカーナンダという人が言っているそうです。

「すべての教育、すべての訓練(くんれん)の理想は人作りであるべきである。
が、その代わりに、われわれは常(つね)に外側に磨(みが)きをかけようと努(つと)めている。
なんの内側もないとき外側に磨きをかけてなんの役(やく)に立つのか?
すべての訓練の目的ないし目標は人間を成長させることである。」


確かに、そうだと思います。

特に、現代という時代は、外側に磨(みが)きをかけることに、世の中の注目も、人々の注目も集まっていると思う。

けれど、外側をどんなに美しく飾(かざ)っても、内側がガランドウならば、何が残るだろうか・・・・・。

外側の世界で、どんなにきらびやかに、美しく、幸せに装(よそお)っても、いざ、自分に立ち戻(もど)った時、何もない・・・。それを感じた瞬間(しゅんかん)、どれだけの虚(むな)しさ、空虚感(くうきょかん)を味わうだろうか・・・。

それは、たとえば、日々、世の中のきらびやかな世界で、楽しく豪勢(ごうせい)に遊んでいるとしても、いざ、自分の部屋に戻ってきたら、そこには何もない。ただ、がらんどうの部屋があるだけ・・。そんな生活に似ているのかもしれない。

物質が氾濫(はんらん)しているだけに、現代の人々には、そういう傾向性(けいこうせい)が強いのかもしれない・・。

けれど、やはり、本当の幸せは、違(ちが)うと思う。

本当の幸せは、内側(うちがわ)にある!

この内側いかんによって、本当の幸せは決まる・・。

そう言えると思います。


実は、その人間の内側を、最高に、最大限に幸せにしていく方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと言えます。

もちろん、創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰が、内側だけで、外側のことはまったく考えていないということでは、ありません。

内側が輝(かがや)くがゆえに、それに比例(ひれい)するように、外側も輝いていくということです。

そういう本物の力(ちから)が、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法だということです。



人生に直面(ちょくめん)する、さまざまな悩みや問題、試練(しれん)、苦しみ、

それらは、一見(いっけん)、表面上の悩みや問題に見える。

けれど、それらの本質は、やはり、内側にあると思う。

自分の内部に、悩みや問題、苦しみの原因(げんいん)がある・・・!

ゆえに、その内面の問題を解決していかないかぎり、悩みや問題も解決していかない・・。

実は、ここに深く、大きな問題があると思う。

悩みや問題の根源(こんげん)には、内面の問題がある・・。
かりに、それをわかったとして、では、その内面をどうやって変えていったらいいというのだろうか?
また、本当に内面を根源的に変えていくことが、できるだろうか・・?


いろいろなアドバイスを聞いたりして、その場かぎりの、さまざまな方法を試(ため)してみたとしても、本当に内面を変えていくことができるだろうか・・?

結論からいうと、それはほとんどの場合「できない!」と言ってもいいと思います。

だから、多くの人々は、不幸や宿命(しゅくめい)に流され、苦しみ、その不幸と宿命を背負(せお)ったまま、生き、そして死んでいくのではないだろうか・・・。


その不幸の流転(るてん)を打ち破る、決定的な秘剣(ひけん)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


そう言えると思います。



南無妙法蓮華経とは、人間の生命を、内面から根源的に変えていける究極(きゅうきょく)の力だと言えます。

だから南無妙法蓮華経をとなえていった時、自分の内面から変革(へんかく)が始まる。

生命が内面から歓喜(かんき)し、自(みずか)らの生命が、不幸から幸せへと変革されていく。

そしてそれは行動となり、その人の人生と未来を大きく動かしていくことになっていく。

すなわち、悩みや問題を解決し、やがて夢や希望をかなえていけるようになっていく。



内面の問題は、実は、内面だけの問題ではない。

内面の問題は、すべての問題だといってもいいくらい、実は重要な問題であると思う・・。

その内面の問題を解決していったとき、さまざまなことがパッと開ける。

悩みも、人生の方向性も、幸せも、希望も、そして勝利も開けていく。


それを可能にする、究極にして絶対(ぜったい)の力(ちから)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・。

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種339 [人生]

人は時として、岐路(きろ)に立たされる。

それは、ものすごく単純(たんじゅん)にいうと、
「幸せになるか」「不幸になるか」という岐路です。

大げさに言えば、人はその岐路に立った時、それを自分で選んでいる!と言えます。

環境(かんきょう)がどうだとか、世間(せけん)がどうだとか、人がどうだとか、自分の状況(じょうきょう)がどうだとか、いろいろなことがあって見えづらくなっているけれど、実は、「幸せになるか」「不幸になるか」・・・、それを自分で選んでいると言えると思います。そしてその積(つ)み重(かさ)ねが、今の自分になっているんだと思う。

けれど人は、往々(おうおう)にして、幸せになるか、不幸になるかを選んでいるのが自分であるということを、忘れてしまう。

環境が悪い、状況が悪い、人が悪いと、人や世の中に振(ふ)り回されて、肝心(かんじん)なことを忘れてしまう。

それは、幸せになるかならないかを決めるのは、自分自身だということです。


ところが、だまされてしまう・・・!


さまざまな状況や周りの人たちの見方や風潮(ふうちょう)、自分の今のさまざまな技量(ぎりょう)などのことを考えてしまい、自分は幸せになれないのではないか?などと錯覚(さっかく)してしまう。

周りの環境や状況、まわりの人々の見方や流れにだまされてしまい、幸せになるかならないかを決めているのは、自分自身であることを忘れてしまう。


けれど、だまされてはいけない!!

幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!


そして、それらの環境や状況、人々の風潮など、それら一切(いっさい)にだまされず、決然(けつぜん)と幸せになっていくために、創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰がある・・!

自らの一念(いちねん)、自らの心、自らの全生命で道を切り開き幸せになっていける、その究極(きゅうきょく)の行動が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

創価学会(そうかがっかい)の南無妙法蓮華経の仏法が、どれだけスゴイか・・!
どれだけ、人々を幸せにしてきか・・・!
どれだけ、未来を切り開き、勝利をもたらしてきたか・・!

それは、本当に計りしれない・・!

また、そのことによって、世界にどれだけ平和を、幸せを、もたらしてきたかも計り知れない。


ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる時、その人は、人生の主人公(しゅじんこう)に変わる。
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる時、その人は生命の王となり、人生を切り開く王者となる。

ドラマや映画の一国の王のように、自(みずか)らの力で幸せを勝ち取る生命状態に変わっていく。
そして人生を勝利していける。

※ちなみに、ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。


よく宗教は弱いものがやるものだとか言うけれど、創価学会の信仰は、そういう部類(ぶるい)のものとはまったく違(ちが)ってくる。逆(ぎゃく)です。

すなわち最強の人間が行う、最強の王者の信仰だということです。
というか、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、自然に人間の王者になっていくんです。

そして、先ほども言ったように、悩みを解決し、夢や希望をかなえて、幸せと勝利をつかんでいける。



話しは違(ちが)いますが、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、このようなことを言っていました。

「絶対強盛(ぜったいごうじょう)な信心(創価学会の信心)とは、子どもが怖(こわ)いことが起こると、「おかあちゃーん」と母親のところへ飛んでいくようなものです。その気持ちで御本尊に願ったら、すごいことになります。

これは理論(りろん)ではありません。信心です。母親のところへ、死にものぐるいというか、純粋(じゅんすい)というか、それ以外にないのだと言う、その一念(いちねん)で御本尊に直結(ちょっけつ)し、願っていけば、どんなことも通じます。その祈りはかないます。それが信心の究極(きゅうきょく)です。」

何を言いたいかというと、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰が、どれだけスゴイか・・!ということです。
本当に信じ、本気で実践していった時、どれだけ素晴(すば)らしい、どれだけスゴイ結果が生まれるか!ということです。そして、どれだけ幸せになっていけるか!ということです。

だから、世の中の環境や状況にだまされてはいけない!!

創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の可能性は、無限大(むげんだい)なのだから。


創価学会二代会長の戸田城聖先生は、言われた。

「人生は、強気でいけ!!!」

世の中は、世界は、良く言えば、愛情や善意に満(み)ちている。
逆に、悪く言えば、悪意やマイナスのエネルギーが充満(じゅうまん)しているとも言えます。

そして、時として、そのマイナスのエネルギーが、自分に襲(おそ)いかかってくることもある。
さまざまな環境や状況、人間模様(にんげんもよう)や自分に降(ふ)りかかってきた運命が、自分を押しつぶそうとする時もある。


けれど、戸田先生は言われた。

「人生は強気でいけ!!」

そして、強気でいけるだけの絶対的な確証(かくしょう)であり、力(ちから)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。

そして、決然(けつぜん)と、その創価学会の仏法の信仰に立ち上がった時、世界の善意のエネルギー、幸せのエネルギーが、自分のもとに集まってくる。自分の世界が、善意や愛情に満ちた世界に変わっていく。

そう言えると思います。


だから、周りがどうであれ、状況がどうであれ、それらの環境にだまされてはいけない!!

なぜなら、幸せになるかならいなかを決めるのは自分自身なのだから・・・!

そして、自分自身で幸せを切り開ていける、自分自身で悩みを解決していける、夢や希望をかなえていける、決定的で最強無敵(さいきょうむてき)の武器(ぶき)であり力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種338 [幸せ]

人気のあるマンガ、あるいはアニメに、
「進撃(しんげき)の巨人」というのがあります。

その「進撃の巨人」の中で、
「女型(めがた)の巨人」というのが
出てきます。

女型の巨人は強力な敵(てき)で、最終的に、この女型の巨人と主人公であるエレンは、戦うことになるのだけれど、
その女型の巨人の正体が、軍の訓練兵として3年間、同じ釜の飯(かまのめし)を食べた仲間である、アニであることを知って、エレンは戦うことができない。

エレンの巨人化の能力を使うためには、確固(かっこ)たる目的が必要で、目的がはっきりしないと、エレンは巨人化の能力を使うことができない。

敵であるアニが、訓練兵時代の仲間であったために、それがブレーキとなって、どうしても巨人化することができない。

最終的には、他の仲間の叱咤激励(しったげきれい)によって、エレンは巨人化してアニと戦うが、エレンが躊躇(ちゅうちょ)し巨人化できなかったのも、ごもっともだとも思う。


何かの明確な目的がないと、どんなにスゴイ力(ちから)も使うことができない・・・。

明確な目的を持って、本当にそうしようと思わないかぎり、その力を使うことができない。


確かにそれは、うなずける。


目的もなく、本当にも、そう、思っていなかったら、その力が出てくるとは思われないからです。

また、自分が、目的のもと、本当にそうしようと思うから、その力を発揮していくことができる。


これは、アニメやマンガの中だけの話しではなくて、現実の中でも、そうだと思う。


人は、何かの目的を持って、ほんとうにそうしようと思わなかったら、その力を発揮(はっき)することができない。

目的に目覚(めざ)め、ほんとにそうしようと思うから、そのように行動し、それを成し遂(と)げていく。

はっきりとした目的意識をもって、ほんとうにやろうと思う時、そのための、さまざまな知恵や能力を発揮し、自分が実現したいことを成(な)し遂げていく。


それが、人間というものだと思う。


けれど、それが難(むずか)しいのも、現実だと思う。

だから、幸せになりたいのに、なかなかなれないことも、多々(たた)あると思う。

また、不幸に沈(しず)んでいってしまう人々も、多くいる・・。

やはり、幸せになっていくためには、明確な目的意識と、それを開花させていくための『方途(ほうと)』が、必要になってくると思う。

その明確な目的意識と、それを実現していくための方法と行動が噛(か)み合っ時、人は幸せになっていけるのではないか・・!と思う。


実は、その、幸せに対する明確な目的意識と、それを実現していく究極(きゅうきょく)の方法が、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰は、自分の中に、幸せに対する最高の目的意識をもたせてくれる。

目的意識を持つというよりも、南無妙法蓮華経をとなえていると、自分の中から、幸せになろうとする、「最高の意識(いしき)」が、自然に湧(わ)き上がってくる。

やがて自分の中から湧き上がってきた「幸せに対する最高の意識」は、さまざまな知恵や勇気、行動となって、その人を動かし、結果として、その人を幸せにしていってしまう。


南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の中から、幸せに対する最高の意識を目覚(めざ)めさせ、幸せに対する最高の目的、また、幸せに対する最高の生命力、最高の勇気や知恵をもたらし、それは、自分の中から、さまざまな力(ちから)、能力や可能性を発揮(はっき)することになっていき、そうなった時、おのずから、その人は、幸せになっていくことができる。


それが、創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰』
だということです。

また、南無妙法蓮華経をとなえることの可能性と力(ちから)は、無限大なので、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、自分だけでなく、まわりの人々、環境や世界からも、幸せをもたらす、さまざまな可能性を引き出し、それは、結局(けっきょく)、自分のいる世界、環境を幸せに変えていくことになる。


ゆえに、勝利していける。
幸せになっていける。



進撃の巨人の中のエレンのように、人は人生において、
戦うか戦わないかの、瀬戸際(せとぎわ)に立たされる時が、ある・・・!!

その時に、勝つか負けるかは、
その人の中にある、
『目的意識』にかかっている。

その『目的意識』が、真(しん)に正しく、強靱(きょうじん)なものであるならば、その人は、どんな瀬戸際(せとぎわ)に立たされたも、戦うことができる。

そして、勝つこてができるだろう。

その最も正しく、最も強靱(きょうじん)な目的意識を持つことができるのが、この創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えます。

幸せと平和に対する、
これ以上素晴らしく、
これ以上強靱な目的意識は、
ありません!!

また、幸せと平和に対する、
これ以上の希望であり、
エネルギーもありません。

幸せと平和に対する、
無限(むげん)の力(ちから)となるもの!

それが、
創価学会の、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるんです・・!

また、創価学会の信仰と、
他の信仰との違(ちが)いは、
ここにあります!!!

どんな苦難(くなん)の中でも、
どんな絶対絶命(ぜったいぜつめい)
の時であろうとも、
平和と幸福に対する、
最高の目的意識をもって、
立ち上がることができる。

エレンが立ち上がったように・・!

そして、勝利していける!!!


・・・
重要なことは、創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる』という仏法の実践が、
自分の中から、幸せに対する最高の目的意識を、
『現実に、湧(わ)き上がらせる!!』ということです。

そして、それにともない、幸せをもたらすための、
最高の生命力、
最高の勇気、
最高の知恵が、
実際に湧(わ)き上がってくる!ということです。


それは結局、自分の中から、さまざまな可能性を発揮していくことにつながり、やがて、
悩みの解決や、夢や希望の実現など、
さまざまなことを可能にし、
その人に勝利と幸せをもたらしてくれる。


あたかもそれは、
「進撃の巨人」の中で、
エレンが、明確な目的を持った時、
巨人化という、とてつもない力を
発揮できたように、
大きな大きな可能性と力を、
発揮してくれる・・・。

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種337 [世界]

1973年にノーベル平和賞を受賞し、アメリカの国家安全保障担当補佐官や国務長官を務めた、ヘンリー・A・キッシンジャー博士は、創価学会インターナショナル会長である池田先生と、8度にわたり、対談している。

池田先生は、キッシンジャー博士に質問している。

「人物評価(ひょうか)について、どのような基準(きじゅん)をお持ちでしょうか。」

アメリカの国務長官を務(つと)め、世界各国のリーダーと丁々発止(ちょうちょうはっし)の交渉(こうしょう)を繰(く)り広げてきた、世界を動かす立役者(たてやくしゃ)である。
答えは明快(めいかい)だった。

「私の変わらざる信念は、交渉の相手を理解することが、きわめて重要(じゅうよう)だということです。相手の知性ではなく人格(じんかく)です。知性の程度(ていど)を確かめることはごく簡単(かんたん)です。しかし人生における困難(こんなん)な問題はすべて、賛否両論(さんぴりょうろん)が知的レベルで真(ま)っ二つに分かれた場合に起きるのです。

ですから、いくつかの可能性の中から一つを選択(せんたく)する場合に『人格』がカギとなるのです。」


池田SGI(創価学会インターナショナル)会長とキッシンジャー博士との出会いは、小雪が舞(ま)うアメリカの首都ワシントンだった。国務長官の博士が、国務省の執務室(しつむしつ)で池田SGI会長を待っていた。1975年1月13日である。

池田SGI会長が、73年1月に、ベトナム戦争終結(しゅうけつ)を呼びかけるニクソン大統領宛(だいとうりょうあて)の書簡(しょかん)を、当時、大統領補佐官だったキッシンジャー博士に託(たく)して以来、博士と池田会長との手紙のやりとりが続いていた。訪米の際には立ち寄(よ)ってほしいとの、博士からの歓迎の意が示されたことを受けての訪問となったのである。

あいさつ、会談風景の撮影(さつえい)が終わると、通訳(つうやく)一人だけを介(かい)して、二人は向き合った。

キッシンジャー博士は、たずねた。

「率直(そっちょく)にお伺(うかが)いしますが、あなたたちは、世界のどこの勢力(せいりょく)を支持(しじ)しようとお考えですか。」

博士が直球を投げてきた。

まさに、知識ではなく人格(じんかく)、すなわち、どんな思想、信念(しんねん)で動いているかを見きわめようとする、短いが鋭(するど)い問いである。

もちろん、池田SGI会長が前年にソ連、中国を相次(あいつ)いで訪問し、コスイギン首相、周恩来(しゅうおんらい)総理らと会った事実が前提(ぜんてい)にある。

即座(そくざ)にSGI会長が答えた。

「私たちは、東西両陣営(りょうじんえい)のいずれかにくみするものではありません。中国に味方(みかた)するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもありません。私たちは、平和勢力(せいりょく)です。人類に味方します。」

キッシンジャー博士の顔に微笑(びしょう)が浮(う)かんだ。

会見を終える時、キッシンジャー博士は言った。

「また、友人としてお会いしたい。これからも連携(れんけい)を取り合いましょう。」


「中国に味方(みかた)するわけでも、ソ連に味方するわけでも、アメリカに味方するわけでもない。
私たちは、平和勢力(せいりょく)です。
人類に味方します。」

人は、このことを、わかろうとしない。

なにか裏があるのではないか・・?
と邪(よこしま)なことを考えてしまう。

そして、創価学会に対して、どうしようもないような下劣(げれつ)なデマを流したりしてきた。

けれど、もしそれらの下劣(げれつ)なデマが正しければ、創価学会(そうかがっかい)は、これほど世界に発展することはなかったでしょう。
また、創価学会の人たちが喜々(きき)として、創価学会の活動に取り組むこともないだろうし、創価学会の信心を真面目に実践(じっせん)することもなかったでしょう。

それに、創価学会の信心と活動を実践することによって、創価学会の人たちが、悩みを解決したり、夢や希望を実現したりして、幸せになっていくこともなかったでしょう。

ところが実際は、創価学会の人たちは、その創価学会の信心と活動によって悩みを解決し、夢や希望を実現して、大いなる幸せをつかんでいる。

それは、創価学会が正しい証拠(しょうこ)であり、世間のデマが間違(まちが)いであることの証明になります。

そう考えていった時、なにか裏があるのではないか・・?と、創価学会に対して、邪(よこしま)なデマを流している連中のほうが、よっぽど、何か裏があり、「邪(よこしま)」なことを企(たくら)んでいると考えるのが、妥当(だとう)なはずです。


キッシンジャー博士の話しに戻ると、博士は、米中接近(せっきん)、米ソの緊張緩和(きんちょうかんわ)、ベトナム戦争からの撤退(てったい)、中東和平交渉(わへいこうしょう)など、まさに、『歴史を書き換(か)えた』その実績は、枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がない。

博士は、池田SGI会長に語った。

「どんな偉大(いだい)な事業も、はじめは、すべて「夢」にすぎなかったのです。だから必要なのは勇気です。前人未到(ぜんじんみとう)の道をひとりゆくには、勇気が必要なのです。」

それを地(じ)でいったのが、71年7月、極秘裏(ごくひり)に訪中して、中国の周総理と会見し、ニクソン大統領の訪中、米中国交正常化に道筋(みちすじ)を付けたことである。

国務長官を退(しりぞ)いた後も、博士は、米外交に影響力(えいきょうりょく)を持つ重鎮(じゅうちん)として、注目を集め続ける。2007年に発表した、核兵器廃絶(かくへいきはいぜつ)を求める共同提言(ていげん)は、核抑止(よくし)戦略の当事者だった人物の発言として重大な意義(いぎ)をもつ。


博士と池田SGI会長との8度目の会見は、96年6月17日。同月、SGI会長がキューバでカストロ国家評議会長と会う予定を知ると、ニューヨークの宿舎(しゅくしゃ)に滞在中(たいざいちゅう)の池田会長を、博士が訪(たず)ねてきた。同年2月、キューバが米民間機を撃墜(げきつい)し、両国関係は悪化していた。

博士は関係の改善(かいぜん)を願い、池田SGI会長のキューバ訪問に強い期待を寄(よ)せていた。そしてSGI会長は、カストロ議長と会見した際、キッシンジャー博士の真情(しんじょう)を伝えたのである。


博士とSGI会長との初会見から40年。

創価学会は、世界192カ国に広がり、博士と語り合った世界平和の道は、大きく広がったと言える。

2015年には、米国とキューバの国交正常化も実現した。


聞いた話しですが、キッシンジャー博士は、池田SGI会長と会見した後、池田会長を評(ひょう)して、こう言ったそうです。

「グレイト・パーソナル(偉大なる個性・人格)」
・・と。

人格を最も重要視(じゅうようし)する博士の言葉だけに、重みがある・・。

「グレイト・パーソナル・・!」

キッシンジャー博士の池田SGI会長に対する期待とその対応を見るとき、その言葉はまさに真実であり本当なんだ!と、心から思う・・・。

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種336 [悩み]

人間、だれでも失敗することはある・・。

当然(とうぜん)です。

その失敗が、簡単に流すことのできる軽(かる)いものなら、いい。

けれど、時として、その失敗が、立ち直れないくらい大きな打撃(だげき)をもたらすこともある。

それも、事実だと思う。

それが、ビジネスの失敗である場合は、自分の生活すら、危(あや)ぶまれてしまう場合もある。
また、それが、人間的な失敗である場合も、打撃が大きい。精神的に、立ち直れないほどのショックを受けることもある。
また、その精神的ショックが、自分の体調(たいちょう)を害(がい)し、さまざまな病気にかかってしまう場合もある。

そういう、さまさまな失敗やショックな出来事は、ないにこしたことはないけれど、人間だから、確かに、そういう出来事に出くわすこともある。

そのショックな出来事を、いかにして、乗り越えていくか・・・?

ここに、人生の勝敗が、分かれてきてしまうのではないだろうか・・・。

ショックな出来事が、どういうことであれ、そこから立ち直るのは、大変なことです。

よく、失敗を勝利の因(いん)にするというけれど、それがどんなに困難(こんなん)であるか・・。どれだけのエネルギーを必要とするか・・・。それが、どれだけ大変なことか・・、わかる人は、わかると思う。

それら、さまざまな失敗がもたらす打撃・・・。

それらの打撃を本当に解消(かいしょう)していくことは、できるのだろうか・・・?

時とともに、その痛みは消えていくことはあると思うけれど、本当にそれらの失敗からの打撃を解消できるのかと、問いかけていったとき、確かに疑問(ぎもん)は残る。

その失敗からの打撃を引きずり、痛手(いたで)を負(お)ったまま、人生を生きていく場合もあるのでは、ないだろうか?

実はその、それらの失敗からの打撃を、現実に解消し、現実にプラスに変えていける、決定的な方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。

そういう、人生の痛手を負った時、本当に、創価学会の『南無妙法蓮華経の仏法』のスゴサがわかる。
創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の偉大(いだい)さ、その大きな大きな価値(かち)が、わかる。

たとえ、人生に大きな失敗をし、打撃を受けたとしても、その打撃すらプラスに変えていける、もの凄(すご)い力が、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰には、現実にある!!

『変毒為薬(へんどくいやく)』というけれど、毒を薬に変えてしまう、もの凄いエネルギーが、南無妙法蓮華経の仏法にはある。

そして、打撃を乗り越え、幸せになっていける。勝利していける。


『悲しみやショックを昇華(しょうか)していく』というけれど、それを現実に成し遂(と)げ、幸せをもたらしていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと思う。

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、この創価学会の仏法の信仰は、『過去さえ変えていける!』と言っていたけれど、それは、どんな悲しい出来事、ショックな出来事、打撃であろうとも、それを、『それがあったから幸せになれた!』と言えるほどに、転換(てんかん)して大いなる幸せをつかんでいける!!ということだと思う。

過去がどうであれ、現実に今、大いなる幸せをつかむことができたとしたら、過去の悲しいショックな出来事でさえ、あたかもそれが、良い出来事であったかのように、思う事ができる!!

それほど大きく、宿命転換(しゅくめいてんかい)、人間革命していけるのが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。

だから、この創価学会の仏法の信仰があれば、かりに、大きな打撃を受けたとしても、大きな失敗をしたとしても、真剣に創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践(じっせん)していくことによって、それすら乗り越え、変毒為薬(へんどくいやく)して、幸せになっていける。失敗すら、大きな成功に変えていってしまう!

そういう、スゴイ変革、スゴイ幸せ、スゴイ勝利を、もたらしていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・・!

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種335 [幸せ]

幸せについて考える時、いろいろな基準(きじゅん)や考え方は違(ちが)うと思うけれど、ぼくが思うに、意識する、しないは別にして、幸せになる人というのは、基本的に、本気で幸せになろうとしているのではないか?・・と思う。

幸せになる人というのは、本気で幸せになろうとしているから、幸せになる・・・。

そういう考え方にも、一理(いちり)あるのではないか・・と思う。

ところが、幸せにならない人というのは、確かに幸せにはなりたいけれど、「自分なんか幸せにはなれないのではないか・・」とか、ああだ、こうだ、と余計(よけい)なことを考えて、実は、ほんとうに幸せになろうとは思っていない場合もあるのではないだろうか・・。

ほんとうに幸せになろうと思っていないのだから、結果として、本当に幸せになるはずがない・・・。

そう、言えると思います。

だれでも幸せになりたいけれど、環境(かんきょう)や周りの人々、世間(せけん)のことばかり気にかけて、自分の境遇(きょうぐう)や世の中のせいにして、幸せにならない理由を並(なら)べ立てる。

そこに盲点(もうてん)があるのかもしれない。

幸せになる、ならないは、実は、自分の外にあるものによって決まるのではなく、自分の中にあるものによって決まる。
幸せになるか、ならないかという責任(せきにん)は、自分の外にあるのではなく、『自分の中』にある。

そう言えるかもしれない。


問題は、自分の中にあり、自分の中にある「なにか」を、幸せにしていかなかったら、幸せになるはずがない・・。


自分は本当に幸せになろうとしているのだろうか?
実は、幸せになろうとしていないのではないか?


そこに問題があるのかもしれない。


では、『本当に幸せになろうとする』とは、どういうことだろうか・・?
『本当に幸せになろうとする』といったって、漠然(ばくぜん)としていて、よくわからない。
意味がわからない・・・。

だから、漫然(まんぜん)と生きるしかなくなっていくのかもしれない。

その、『本当に幸せになろうとする』ということ。
自分の生命自体を、『本当に幸せにしよう!とする』ということが、実(じつ)は、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!』と、いうことなんです。

『南無妙法蓮華経をとなえる』ということは、自分の生命自体を、本当に幸せにしようとする!ということなんです。
また、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまう!!のが、『南無妙法蓮華経』だとも言えます。

南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまうことなんだから、その結果として、幸せにならないわけがないんです。だから、幸せになっていける。現実に、悩みや問題を解決して、夢や希望を、かなえていける。

自分の生命自体を、そういうふうにしてしまう!!のが、『南無妙法蓮華経をとなえる』ということだと思います。

だから、創価学会の人たちが、幸せにならないわけがなく、現実に悩みを解決し、夢や希望をかなえて、世界中の人々が幸せを勝ち取っています。


南無妙法蓮華経の力と可能性は、計り知れないから、一概(いちがい)には言えないけれど、南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の生命の中から、本当に幸せになろうとする力を呼び覚(さ)ます。本当に幸せになっていく生命の力を無限に湧(わ)き上がらせ、輝(かがや)かせていく。

その結果として、悩みを解決できたり、生命を蘇生(そせい)させて病気を克服(こくふく)できたり、夢や希望をかなえていけるようになっていく。

それが『南無妙法蓮華経』であり、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことではないかと思う。


南無妙法蓮華経をとなえることがスゴイと言っても、いまいち、ピンとこないかもしれないけれど、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、詩の中で、こういうことを言っています。


「だれもが、宇宙の無限(むげん)の力を秘(ひ)めた「小宇宙(しょううちゅう)」である。
だから、あの「太陽」も自分の中にある。
自分の中に輝(かがや)く「銀河(ぎんが)」もある。
星々(ほしぼし)をわたりゆく無数の光が、この胸(むね)の中にある。
「内(うち)なる宇宙」も無限である。
だから、私は言っておきたい。
どんな悩みがあっても、
君は負けるな!
どんな障害(しょうがい)があっても、
夢をあきらめるな!
自分の中に「太陽」を輝かせて生き抜(ぬ)こう!」


ぼくが思うに、南無妙法蓮華経をとなえて生きるとは、こういうことだと思う。
南無妙法蓮華経をとなえて生きるとは、自分の中の内なる宇宙を、無限に輝かせ、どんな悩みも、どんな障害も乗り越えて、夢や希望をかなえ、幸せを勝ち取っていくことだと思う。
また、それができる!のが、南無妙法蓮華経をとなえる生き方だと思う。

だから、『南無妙法蓮華経をとなえる』ということは、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまう究極(きゅうきょく)の行動であり、それゆえに、必ず幸せになっていける・・!


それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・・。

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ひまわりの種334 [希望]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が言っています。

『御本尊(ごほんぞん)は、なぜ大切なのか ------ 。

それは、御本尊への「信」によって、私どもの胸中(きょうちゅう)の本尊、仏界(ぶっかい)を開けるからです。

この「御本尊」は、自身の「信心」のなかにこそある、と大聖人(日蓮大聖人)は仰(おお)せです。

妙法(南無妙法蓮華経のこと)の当体(とうたい)である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕(あらわ)すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです。』

ちなみに「ご本尊」とは、創価学会の人たちが南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえて祈る対象で、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。

そのご本尊がなぜ、大切かというと、自分たちの胸中(きょうちゅう)の本尊、自分の中にある本尊、仏界(ぶっかい)を開くためだという。

自分の中にある本尊、仏界(ぶっかい)を開くといっても、わからないと思いますが、自分の中にある幸せを開く力、無限の力、計(はか)り知れない無限の可能性を開いていく!ということです。

その幸せを開く無限の力が、『ご本尊』にはある!!ということです。

そして、それは自分の中にあるのだけれど、その無限の力をどうして開花していっていいかわからない。具体性がない。

その具体性がない自分の中にある無限の力を、形として顕現(けんげん)したものが、御本尊だということです。

そして、御本尊を信じ、南無妙法蓮華経をとなえて真剣に祈っていくとき、その自分の中にある、無限の力、幸せになっていける力、智慧(ちえ)や希望、勇気が、まさに自分の中から湧(わ)き上がってくるということです。

だから、創価学会の「ご本尊」は、おすがりするのとは違(ちが)う。
また、棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを期待するものとも違う。

根本は自分自身なんです。

その根本の自分自身に挑戦するために、「ご本尊」はある。

その根本の自分自身に対して、どんなことがあっても絶対にあきらめず、負けないで、自分の可能性、智慧(ちえ)、希望をどこまでもどこまでも開花していくために、ご本尊はある!!

また、自分では思いもよらない可能性、力、運やチャンス、それらあらゆるものを引き出していけるのが、創価学会が、南無妙法蓮華経をとなえている「ご本尊」だと言えます。



人間には無限の力がある。
だれでも幸せになっていける力がある。
だれでも、困難(こんなん)や悩みを乗り越え、勝利していける力がある。

確かにそれは、あるんだけれど、ややもすると人は、そうは思えなくなっていく。

さまざまな状況(じょうきょう)や悩み、困難に押(お)しつぶされ、自分が幸せになれるとは思えなくなってしまうことが多々(たた)ある。まして、自分の中に、無限の可能性、言い換(か)えれば、「無限の宝(たから)」があるとは、なかなか思えない場合もある。そして、時に流され、人生に流され、一生を終わってしまう。

そういうことも、確かに、多々あると思う。

それを打ち破ることが、どれだけ困難か・・・。
その自分の中の闇(やみ)を打ち破ることが、どけだけ大変なことか・・・。
また、それができないから、多くに人が自分が希望する人生を送れず、不幸に沈(しず)んでいってしまう・・・。

その闇(やみ)、絶望、苦しみ、悩みや困難を、根底から打ち破るために、『ご本尊』はある!
また、それができるのが、創価学会が信じ、祈っている「ご本尊」です。


ご本尊は、自分の中にある、「幸せになる力」を現実に引き出す!!
絶望を消し去り、希望を生み出す!!
本来、人間は幸せになるために生きている。
そして、その幸せになるために無限の力を引き出し、困難を乗り越え、勝利していける。

その本来、人間がもっている、幸せになる力を無限に引き出し、悩みを乗り越え、夢や希望をかなえて勝利していけるのが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰であり、創価学会が信じ祈っている『ご本尊』だと、いうことです・・!

nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | -