ひまわりの種317 [日常]

「裸の王様」の物語は、皆さん、知っていると思います。

裸(はだか)の王様は、アンデルセンの童話です。

ある、おしゃれ好きな王様に、詐欺師(さぎし)の仕立(した)て屋が「バカには見えない布地」で服を作ります。自分が馬鹿者(ばかもの)だと思われたくない家来(けらい)や王様たちは、あるはずもない服を称賛(しょうさん)します。王様は、その服を着てパレードに出かけますが、やはり、バカだとは思われたくないので、誰一人『見えない』とは言えません。そんな中、子どもが『王様は裸だ!』と真実を言います。これで我(われ)に返った観衆も一転(いってん)して、『そうだ、王様は裸だ。』と言い出します。そして、ついに一人残らず、王様は裸だとさけぶようになります。

王さまは大弱(おおよわ)り。王さまだってみんなの言うことが正しいと思ったからです。でも、「いまさら行進パレードをやめるわけにはいかない。」と思ったので、そのまま、今まで以上にもったいぶってパレードを続けたという話しです。


これは、人間がよく陥(おちい)りやすい感情の風刺(ふうし)だと思いますが、探(さが)せは、似(に)たようなことが世の中には、あると思います。

たとえば、日本にはびこっている、さまざまな宗教・・。

それは、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰などですが、それらは、だれも本当に力や効力(こうりょく)、ご利益(ごりやく)があるとは思っていないけれど、かといって、だれも言わない。表面上は、いかにも、ご利益や効力があるように、もてはやす。あそこは、何々にご利益(りやく)がある。あそこはなんとかにご利益があるとかいっても、現実には、確証的(かくしょうてき)なものは、なにひとつない・・!

だれも「王様は裸だ!」と言わないように、ただ、なんとなく、あがめたて、もてそやす。そして、「きっといい事があるに違(ちが)いない」とか言って、 祈ったところで、そんなことは、まず、起らない・・。

宗教の虚構(きょこう)が通常(つうじょう)となり、それこそ、王様が裸で町をねり歩くような行為(こうい)が、まかり通ってしまう。

それが、世間一般的な宗教だと思う。

ところが、子供が、『王様は裸だ!』と言ったように、唯一(ゆいいつ)、真実を言ったのが、創価学会(そうかがっかい)です。

「それらの宗教は、間違(まちが)っている。そんな宗教に祈ったところで、幸せになどならない。返(かえ)って、でたらめな宗教に祈るということは、自分の生命と人生に害(がい)をもたらし、不幸になる原因(げんいん)になってしまう!」

そう、はっきりと明言(めいげん)したのが、創価学会の人たちだと言えます。

事実、その通りです。

それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教などは、明(あき)らかに間違っているがゆえに、その間違った宗教に祈るということは、自分の生命と人生を、その間違ったデタラメの宗教に、ささげることになる。間違ったデタラメの宗教に自分の生命と人生をささげていけば、当然、自分の生命と人生は、間違ったデタラメなものになっていく。自分の生命と人生が、間違ったデタラメなものになっていったならば、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまう。だから、真剣に祈れば祈るほど、逆(ぎゃく)に、不幸になる原因がつくられていき、その人の人生に、大きな害をもたらしてしまう。

それが、真実だと言えます。

不幸の根源(こんげん)には、間違った宗教がある!ということです。

そして、間違いのない、人々に幸せをもたらしていける、真実の宗教が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

それが正しい証拠(しょうこ)として、創価学会は、どんどん発展し、世界192カ国に広がっている。そして、その創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法(ぶっぽう)を実践した、世界中の人たちを現実に幸せにしている。

それは、ひとりひとりの悩みを解決した結果であり、ひとりひとりの夢や希望を実現(じつげん)していけた結果であり、ひとりひとりが現実に『幸せになった!』という結果として、創価学会は世界中に広まっている。


あたかも、それは、童話(どうわ)・裸の王様で、子供が『王様は裸だ!』と叫(さけ)んだあと、みんなが、『そうだ、王様は裸だ』と言い、最後は、すべての人が『王様は裸だ』と言ったように、ひとりの勇気の声が、まわりに広がり、世界に広がり、その真実の証明(しょうめい)として、これからも、創価学会は、広がり続けていくことでしょう・・・!


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ひまわりの種309 [日常]

以前、日本の宗教研究の権威(けんい)であるという方が、ラジオで、日本の一般的な宗教について、語られていたのを聞いたことがありますが、その内容(ないよう)の、あまりものくだらなさに、呆(あき)れ返(かえ)ったことがありました。

けれど、それは、その宗教研究家が悪いのではなくて、日本の一般的な宗教が、あまりにもくだらないので、どんなにがんばっても、どうしても、くだらない話ししかできない!ということです。

だから、他のだれが話したとしても、くだらない話ししか、できなかったでしょう。

それに、ただ、くだらないだけならいいのですが、そのような、くだらない、でたらめ、まやかしの宗教というものは、根本(こんぽん)からして、まやかしの間違(まちが)った宗教ですから、真剣に祈れば祈るほど、逆(ぎゃく)に、間違ったデタラメの結果として、 その人にさまざまな不幸をもたらす結果になってしまいます。

間違ったデタラメの宗教に祈るということは、その間違ったデタラメの宗教に、自分の生命を人生を、ゆだね、ささげていくことになります。間違ったデタラメの宗教に、自分の生命と人生をゆだね、ささげていったなら、当然(とうぜん)の結果として、自分の生命と人生は、デタラメの間違ったものになっていきます。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったなら、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまいます。

それが、間違った宗教というものです。

そして、その間違った宗教が、日本の葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教などです。


そして、もう一つ言えることは、たとえ宗教研究家であっても、現実に幸せという結果がでる宗教、悩みや困難(こんなん)を解決していける、『本物(ほんもの)の宗教』をやったことがなかったら、真実と確信のある話しは、できない!!ということです。

たとえば、どんなにリンゴの成分(せいぶん)を語り、細かく分析(ぶんせき)したとしても、リンゴのおいしさは、わからない!ということです。

リンゴの成分について、長々と語るよりも、リンゴをひとつ取って、「ガブリ」と食べてみなかったら、そのおいしさは、わからないと、いうことです。

現実的な人間にとっては、研究も大切かもしれませんが、食べてみて、おいしいか?まずいか?という現実の結果が大切であり、その、実際に味(あじ)わうことのできる現実がなかったら、なんの意味もなさないということです。

現実においしいのか、どうか?、その結果が、現実の人間にとっては、とても大切だということです。

そして、その、現実に結果のでる、悩みや問題を解決していけ、夢や希望をかなえて幸せをつかんでいける、真実の宗教と言えるのが、創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

そして、その現実に幸せという結果を出していける、真実の仏法(ぶっぽう)の信仰を実践(じっせん)していった時、あらゆるものが見えてくる。あらゆる事象(じしょう)がわかってくる・・と言えると思います。

根本(ほんぽん)になるものが、わかっているから、そこから、すべてを説明でき、理解していけるということです。

それは、人生という道にも通(つう)じ、自分は、どうしたらいいのか、どうしたら幸せになるのか、どうしたら、自分の希望をかなえていけるか、その道が、明確にわかってくる。迷(まよ)わない! 

だから、勝利していける。視野(しや)が開けていく!希望が見えてくる!そして、勇気が湧(わ)いてくる!!

幸せをもたらす、大元(おおもと)の法則(ほうそく)がわかっているから、希望がある!怖(おそ)れない!負けない!


それが、現実に結果の出る、悩みや問題を解決していける、夢や希望をなかえる大きな力(ちから)となっていける、法則であり、本物の宗教と言える、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の信仰なんです・・・!


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ひまわりの種292 [日常]

唐突(とうとつ)だけれど、日本の一般的な宗教においては、純粋(じゅんすい)な人ほど、不幸になると、言うことができます。

一般的な日本の宗教とは、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教などですが、どういうことかというと、それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教は、あきらかに間違(まちが)った宗教であり、デタラメな宗教だということです。それは、ちょっと考えれば、わかりますし、仏法哲学(ぶっぽうてつがく)をひもとけば、完全に間違った宗教であることがわかります。

間違った宗教というと、ピンときませんが、はっきり言えば、人を不幸にしてしまう宗教だということです。

間違った宗教に祈るということは、自分の生命と人生を、その間違った宗教に、ゆだね、ささげていくことになります。間違ったデタラメな宗教に、自分の生命と人生をささげていけば、自分の生命と人生は、間違ったデタラメなもになっていく。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったら、結果として、それは、さまざまな形で不幸をもたらしてしまう!ということです。

それが、日本の葬式仏教や神社信仰、観光宗教だということです。

だから、それらの宗教は、数字であらわすとしたら、すべて、マイナスの宗教であり、-1とか-10、-100、-1000、-10000などという、必ず、『マイナス』がつく存在(そんざい)だということです。

マイナスの度合(どあ)いを、最も低く見積(みつ)もって、それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教を、かりに、数字で「-1」としたとします。
そして、それらの宗教に祈ることを、かけ算で表現(ひょうげん)してみます。

そうすると、「-1」に「1」をかけただけなら、それでも「-1」で済(す)みます。

けれど、「-1」に「10」をかけたら、マイナス10倍の「-10」になってしまいます。
そして、「-1」に「100」や「1000」をかけていったら、逆(ぎゃく)に大きなマイナスである、「-100」や「-1000」になってしまいます。

それが、世間一般的な葬式仏教や神社信仰、観光宗教だと、いうことです。
かける倍数(ばいすう)を増やすというのは、強く純粋に、真剣に祈っていくことを、あらわしています。だから、それらの宗教に真剣に強く、純粋に祈れば祈るほど、マイナスにかける倍数が増えていき、祈れば祈るほど、「マイナス」の数が増えていく!ということです。

マイナスの数が増えていくということは、不幸を被(こうむ)る量(りょう)が増えていくと、いうことです。

だから、それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教に、純粋に、真剣に祈れば祈るほど、不幸になっていく!ということです。

だから、それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教などでは、純粋な人ほど、不幸になってしまうという結論(けつろん)になってしまいます。

不条理(ふじょうり)というか、よくドラマや映画などで、なんで、あんないい子が・・・とかいうことがありますが、そういう結果にもなりかねない! ということです。

だから、宗教なんだから、純粋に真剣に祈ったら、いいことがありそうだ・・と考えるのは、間違えです。

宗教には、正邪(せいじゃ)があり、間違ったものに祈っていけば、不幸になります。それが真実であり、法則(ほうそく)です。


けれど、素直(すなお)に純粋に祈ったほうが不幸になるなんて、こんな、かわいそうなことはありません。

そうではなく、素直に純粋に祈っていけば、幸せになっていける、本当の宗教は、ないものだろうか?と、考えたくなります。

実は、その、素直に、純粋に、真剣に祈れば祈るほど、幸せになっていける宗教が、創価学会(そうかがっかい)の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です。

この創価学会の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法は、世間の間違った宗教とは逆に、真剣に祈り、実践(じっせん)すればするほど、幸せになっていきます。必ず、プラスの結果が出る!ということです。
だから、創価学会は、世界192カ国に広がっている。

もちろん、純粋なだけではだめですが、真剣に祈り、勇気をもって、実践していった時、計(はか)り知れない力と可能性を発揮(はっき)する。それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰です。

だから、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、他の宗教と違い、文字通り、「プラス」の宗教なんです。

数字であらわせば、プラスの1000にも、10000にも、百万にも、一億(いちおく)にもなるのが、創価学会の信心です。

いわば、創価学会の信心には、無限の可能性がある!ということです。

そのプラスの信心に、祈りという「かけ算」をしていったとしたら、その数字は、何百億にも、何兆にも、なっていく可能性があります。

それが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法です。

だから、無駄(むだ)がない。祈れば祈るほど、幸せになっていける。



葬式仏教や神社信仰、観光宗教などのように、純粋に祈れば祈るほど、不幸になるようなことは、あってはいけない。

純粋に、真剣に祈れば祈るほど、幸せになっていける、また、祈りや願いを現実にかなえていける、真実の宗教が求められます。

そして、その、本当に祈りからプラスの結果がでる、どこまでも無限に、幸せをもたらしていける、また、悩みや問題を解決でき、夢や希望をかなえていける力(ちから)のある、真実の宗教が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


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ひまわりの種287 [日常]

ある町の町会長が、言っています。

「私は創価学会に期待します。今、地域行事を支(ささ)えてくれている主体(しゅたい)は学会員です。
何より、これほど青年を育てている団体もないですから。」

これほど、青年を育てている団体はない・・!

これが、創価学会の実像(じつぞう)だと思う。

三流のデマ記事などとは反対に、これほど、人間を人間らしくし、より誠実(せいじつ)に輝(かがや)かせている団体もない。

それが、創価学会だと思う。

海外でも、創価学会に入る若者は多い。そして、その若者の成長に驚(おどろ)き、感動し、創価学会に入る親も多いそうです。

それは、なぜだろうか?

それは、創価学会には、若者が納得(なっとく)し、積極的に活動するだけの哲学(てつがく)と力、大きなエネルギーと魅力(みりょく)、真剣にやっていくだけの価値(かち)がある!ということです。

人それぞれの悩みや希望、それら現実に突(つ)きつけられた課題(かだい)に対して、明確な答えと結果が出てくるということです。

若者は、夢も多いし悩みも多い。それらの夢や悩みをかけて、真剣に創価学会の仏法(ぶっぽう)の信仰をやっていった時、必ず、それらの悩みを解決していけ、夢や希望も、かなえていけるようになっていく。

現実を変えていく力、夢や希望をつかんでいく力、その力を明確に示(しめ)し、つかんでいくことができるから、青年たちは、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰をやるんです。そして、より良く変わっていく。

それは、人間としての大きな成長をもたらし、歓喜(かんき)と充実(じゅうじつ)、平たく言えば、幸せをもたらす。

人は、そのことによって幸せになるとわかったら、積極的(せっきょくてき)になるんです。また、幸せの歓喜をつかむことによって、より良く誠実な人間に変わっていく。

それは、社会的にも、人間的にも、人間らしい最高の向上(こうじょう)を、もたらす。

それが、創価学会がやっていることです。

世間のいいかげんなデマ記事とは、正反対です。

その人の境涯(きょうがい)を高め、より良い人間に人間革命していく。そのことによって、地域や家庭、職場や社会にも良影響(こうえいきょう)をもたらし、やがてそれは、世界をより良く、平和に、幸福にしていくことにつながっていく。

それが、創価学会です。

地域や社会に、もっとも根(ね)ざし、幸福を築(きず)いていけるもの。それが創価学会だと思う。

だから、浮(う)いたネット上のデマなどとは違(ちが)って、地域や社会の中で、現実を知っている人たちは言う。

「私は創価学会に期待します。」

・・と。

それが、創価学会であり、それだけの変化と向上を、もたらすことのできる土壌(どじょう)とエネルギー、哲学(てつがく)と現実の力(ちから)が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・。


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ひまわりの種254 [日常]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『自由といっても、自分が心の底から「何を」したいと願っているのか。
自由とは遊ぶことではない。浪費(ろうひ)することではない。時間があることではない。休日が多いことではない。気分のまま、気ままに生きるのは 「放縦(ほうじゅう)」であって「自由」ではない。

自由とは、いかに、自分を高揚(こうよう)させていくか、自分自身の目的に向かっていくか -----そのなかにこそ、黄金(おうごん)のような「自由」がちりばめられ、光っているのです。

「受け身(うけみ)」になったら、どんな自由な環境(かんきょう)であっても、「不自由」な自分になる。「攻(せ)め」の一念(いちねん)になれば、どなん不自由な環境であっても、「自由」な自分になれる。

病気の人は、学校にいけない。戦争中の国の子どもも、学校に行けない。
行ける人は、行ける自由がわからない。行けることは最大の自由なんです。勘違(かんちが)いしてはいけない。』


確かに、自由といっても、考えると難(むずか)しいと思う。
よく、自由奔放(じゆうほんぽう)に生きているとかいうけれど、それが本当に自由かというと、わからない。また、だれもが自由奔放に生きられるかと言ったら、そうでもない。だったら、自由奔放に生きられない人は、自由ではないのか・・?
というと、それも、違(ちが)うと思う。

また、池田先生が言うように、受け身になったら、どんな環境でも不自由になってしまう。受け身でなく「攻(せ)め」にまわる・・!その時に、自由は勝ち取られていく。

人には、悩みがあり、さまざまな環境や境遇(きょうぐう)、さまざまな問題が立ちふさがっている場合もある。思うようにいかない場合も多いと思う。それを不自由と感じるのは、きっと、その人が「受け身」になっているからだと思う。

そのどんな悩みや環境、境遇(きょうぐう)であろうとも、攻めにまわった時から、自由は始まっていく。

けれど、それが、そう安々(やすやす)とできたら、悩む人はいないし、不幸になる人もいない。
さまさなな境遇や悩みが、解決できないから、人は悩み、苦しむ。

そして、不自由を感じる・・・。

不幸は、不自由の中にあるのかもしれない。

日蓮大聖人は、『南無妙法蓮華経を、となえることより楽しい遊楽(ゆうらく)はない!』と言った。

南無妙法蓮華経を、となえることは、楽しいことなのだろうか・・?

また、『南無妙法蓮華経は、歓喜(かんき)の中の大歓喜!』だと言う。

南無妙法蓮華経を、となえることが、ものすごい喜(よろこ)びとなり、南無妙法蓮華経をとなえること自体が、ものすごい幸せ・・・!

なぜだろうか・・・。

それは、おそらく、南無妙法蓮華経を、となえることによって、自分の中の弱き命、環境や悩みに支配(しはい)されてしまう「受け身」の自分が、打ち破(やぶ)られ、攻(せ)めの心、攻めの命(いのち)になっていけるからではないだろうか・・!

そして、攻めの境涯(きょうがい)になったならば、どんな環境であろうとも、自由を感じ、喜びを感じ、幸せを感じていく。そして、歓喜した自分の中の生命の力によって、さまざまな悩みを解決し、環境や境遇を変え、夢や希望に向かって、力強く進んでいける。

それは、まさしく、人間が心から望んでいることであり、人間が望む自由そのものだと思う。

それを、手に入れる、決定的で確実な方法が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっほう)の信仰なんです。

また、人生を幸せに切り開いていく自由を、手に入れることができるから、創価学会の人たちは、さまざまな悩みを解決し、困難(こんなん)を乗り越えて、幸せになっていけると、いうことです。

これが、創価学会が世界192カ国にも、広まっている理由の一つだと思う。

だから、確かに、自由といっても、いろいろ、ある・・。
自由奔放(じゆうほんぽう)に見える人が、本当に自由だともかぎらない。また、困難な環境や悩みに苦しんでいる人も多い。

けれど、そのどんな困難な環境や境遇であっても、どんな深い悩みであっても、打ち破り、解決し、夢や希望に向かって幸せをつかんでいくことのできる、最高最大の自由が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰には、ある!!ということです・・・。


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ひまわりの種241 [日常]

以前、ブログのコメントで、

「創価学会に入らなくても、南無妙法蓮華経をとなえていれば、大丈夫(だいじょうぶ)ですか?」

という質問をされたことがあります。

南無妙法蓮華経はスゴイので、となえないより、となえたほうが、全然、良いけれど、かといって、それで大丈夫かといったら、そういうことでもありません。

南無妙法蓮華経の本当のスゴサは、人生を、自分を、世界や生命を、幸せに変革(へんかく)していく力にあると思います。

宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)していく力。世界を変えていく力(ちから)が、『南無妙法蓮華経』だと思います。

けれど、ほんとうに悩みや問題を解決し、夢や希望をかなえていくには、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)に直結(ちょっけつ)した実践活動が必要になっていきます。

いくら、南無妙法蓮華経をとなえても、現実に南無妙法蓮華経の仏法に直結した実践(じっせん)の行動がないと、自分の宿命は、変革され転換されていきません。

ようすのに、南無妙法蓮華経はスゴイけれど、南無妙法蓮華経をとなえるだけでは、自分の悩みや問題は、解決していかないということです。南無妙法蓮華経を真剣にとなえ、仏法の実践活動を現実にしていった時、その二つが合(あ)い重(かさ)なり、幸せが、かけ算されるように、さまざまな悩みや問題が解決し、自分の宿命が転換され、境涯(きょうがい)が変わり、夢や希望も、かなえていけるようになっていくんです。

南無妙法蓮華経をとなえることと、仏法の実践活動の両輪(りょうりん)があってこそ、夢や希望がかない、幸せになっていけるんです。

南無妙法蓮華経は、蘇生(そせい)の力だし、南無妙法蓮華経をとなえることは、スゴイことなので、病気などの時は、真剣に南無妙法蓮華経をとなえていくだけでも、病気が良くなり、治(なお)ったりすることも多々(たた)ありますが、やはり、南無妙法蓮華経をとなえるだけでは、不十分だと言えると思います。

どうしても、南無妙法蓮華経の仏法に直結した、真実の実践活動が必要となってきます。

その仏法に直結した実践活動ができる場所が、『創価学会』なんです。

創価学会は、南無妙法蓮華経の仏法を、純粋(じゅんすい)に、一点の狂(くる)いもなく、真に正しく実践している、唯一(ゆいいつ)の団体だと言えます。

だから、本当に幸せになりたいのならば、悩みを解決したいのならば、また、夢や希望をかなえていきたいのならば、どうしても、創価学会という存在が必要になってきます。

南無妙法蓮華経を、となえていくだけでも、時として、その人を窮地(きゅうち)から救い、助けてくれるけれども、やはり、それだけでは、本当に幸せになっていくことはできません。

自分の宿命を転換していくためには、どうしても、創価学会の中で南無妙法蓮華経をとなえ、創価学会の中で、仏法の実践活動をしていく必要があります。

その時、宿命が転換され、悩みや問題が解決でき、やがて夢や希望もかなえていけるようになっていくんです。

だから、創価学会とは、『幸せを創造(そうぞう)する場所』であり、創価学会の中で、南無妙法蓮華経をとなえていった時、はじめて、南無妙法蓮華経のスゴサ、偉大(いだい)さ、その無限大の力を発揮(はっき)していくことが、可能になっていく!と結論することができると思います・・。


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ひまわりの種171 [日常]

このまえ、こういう話しを聞きました。

ある婦人がいた。彼女は優秀な女性で、「私ほど、親孝行してきた人は、いない!」と自負(じふ)していた。

そんな彼女の母親が倒(たお)れ、介護(かいご)が必要になった。
親孝行な彼女は、献身(けんしん)的に介護に、取り組んでいった。

けれど、日々の介護の中で、精神的にも肉体的にも、疲(つか)れてきて、今まで、「これほど親孝行をしてきた人は、いない!」と自負してきた自分に、親に対して、醜(みにく)い心、「死んでくれればいいのに・・」とか、すさんだ心が、出てくるのを感じた。

そんな中、自分を見失(みうしな)わないために、毎日の犬の散歩だけは、続けようと思っていた。そして、ある時、犬の散歩をしているとき、聖教新聞(せいきょうしんぶん)が、「ご自由に、お取りください」と書いて、カゴに入って置(お)いてあるのを見つけた。

どんなことが、書いてあるんだろうと、ふと、思い、手にして読んでみた。最初、目に付(つ)いたのは、一面に出ている、世界中の創価学会の人たちの笑顔あふれる写真だった。「なんて!清々(すがすが)しい笑顔なんだろう・・!」と思い、他の記事なども、読んでみたりした。そこには、希望あふれる言葉が、あふれていた。

そこには、日々の介護の中で、自分のすさんでいく心を、取り戻(もど)してくれるものが、あった!

とくに、池田先生(創価学会インターナショナル会長)のスピーチや随筆(ずいひつ)の中には、自分を勇気づけ、励(はげ)ましてくれる言葉が、あふれていた。

そして、「ご自由に、お読みください!」と書かれて置いてある聖教新聞を、読むのが日課(にっか)になっていった。犬を散歩させるためというより、聖教新聞を読むために、外に出るようになった。

そして、自分も創価学会に入りたい!と思うようになり、とうとう、その外の壁(かべ)に聖教新聞が置いてある家のドアをたたき、自分から、創価学会に入った!!

という話しです。


聖教新聞には、創価学会には、乾(かわ)いた心を、うるおしてくれるものが、ある!!さまざまな苦難の中、すさんでいく心を、取り戻(もど)してくれるものが、ある!

それは、自分の生命を蘇生(そせい)させる!ということです。自分の人生に、希望を呼(よ)び戻(もど)し、幸せにしていける力(ちから)がある!!!ということです。

もっと言えば、どうしても解決しなかった悩みや問題を、解決していける力(ちから)があり、また、壁(かべ)のように思える夢や希望を、かなえていける現実的な大きな大きな力がある!!ということです。

だから、創価学会は、希望と幸せのオアシスなんです!!
また、現実に、人生と生命を、幸せにしていける、これ以上のオアシスは、ないでしょう!

それが、創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰であり、創価学会という、真実の幸せに向かって、まっすぐに進んでいける場所であり、また、その紙面が、聖教新聞には、あるということです・・。


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ひまわりの種161 [日常]

創価学会の人と、そうでない人の違(ちが)いが、何かあるのか?というと、表面的に別に違いがあるわけではない。自分が創価学会員であることを言わなければ、だれも創価学会員だとは気づかないし、創価学会員だとは、思わない。

けれど、あの人は、何かが違う・・!何かが輝(かがや)いている。どうして、あんなに仕事ができるんだろう?と思って聞いてみたら、創価学会員だったという話しは、よく、あるようです。

ということは、やはり、何かが違うということです。

何が違ってくるかというと、まず勘違(かんちが)いしてほしくないのは、ある人が創価学会に入って、その人が、まったく別人になるということでは、ありません。

創価学会に入って違いが出てくるのは、人との違いではなく、自分自身の創価学会に入る前と、入った後の違いだと、いうことです。ようするに同じ人間だけれども、人間としての輝(かがや)きが、大きく違ってくるということです。

そして、もうひとつ、大切なこととして、創価学会に入って、真面目に創価学会の信仰をやっていくことによって起こる違いは、幸せを引きつける力(ちから)です。もっと言うと、自分で幸せをつかんでいく力(ちから)が、格段(かくだん)に違ってきます。また、その人の幸せをつかもうとする姿勢(しせい)と行動、努力などが、大きく変わってくるということです。

だから、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰によって、創価学会の人たちは、幸せになっていけるんです。

また、それと同時に、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)によって、人間性もおおきく向上(こうじょう)し、開花していきます。

創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰は、人間性を無限に開花していく法則(ほうそく)だからです。また、幸せをつかむ絶対にして最高の法則であり力(ちから)だとも、言えます。

だから、その結果として、悩みや問題を解決していくことができ、また、夢や希望も、かなえていけるようになっていくんです。

だから、創価学会に入った違いは、人との違いではなく、自分自身の中の違いです。自分自身を大きく開花させ、幸せにしていってくれる。自分の生命を蘇生(そせい)させ、輝(かがや)かせてくれる。

その結果として、あの人は、何かが違う・・。輝いてる!なぜ、あんなに仕事ができるんだろう?と人が思うような結果に、つながっていくんです。

それが、創価学会の、自分自身の生命を蘇生(そせい)させ、輝かせ、自分の中から幸せの力(ちから)を湧(わ)き上がらせ、自己(じこ)を変革しながら、幸せになっていける、南無妙法蓮華経を、 となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


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ひまわりの種159 [日常]

キング博士とともに、人権・平和のために戦ったハーディング博士は、言っています。

「生きるのには、水や食べ物が必要なように、『物語』を必要としているのではないでしょうか。つまり、世界の各国で、一層(いっそう)、健全(けんぜん)な民主主義が発展するには、私たちはお互(たが)いの『物語』を語り、聞き合う必要があるのです。」

その言葉を受けて、池田先生(創価学会インターナショナル会長)は、言っています。

「世界192カ国・地域に広がるSGI(創価学会インターナショナル)でも、毎月、各地で伝統(でんとう)の『座談会(ざだんかい)』という少人数の会合を行っています。そこでは、その地域のメンバーが集(つど)い、仏法(ぶっぽう)を学び、それぞれの体験談(たいけんだん)を語り合います。まさに自(みずか)らが主役になり、人生の『物語』を語るのです。そして、共感と励(はげ)ましの拍手(はくしゅ)を送ります。」

また、池田先生は、こうも言っています。

「だれもが人生で最高の『物語』を生きている。自分が主役の『物語』です。」


人は、一般的に物語が好きだと思う。だから、ドラマや映画などに熱中する場合も多い。

けれど、はたと気づくと、その物語は、テレビや画面の中の物語であり、自分とは、無関係な場合も多い。テレビの物語を見ていても、時間は、流れ、 人生は、ついやされる。けれど、自分の物語に生きることを、忘れたり、おろそかにしてしまう場合も、あるかもしれない。

それでも、時間は、流れていく。

池田先生は、言った。

「だれもが人生で最高の『物語』を生きている。自分が主役の『物語』です。」

創価学会の中には、この一人一人が主人公の物語に、満(み)ちている。
ひとりひとりが、人生の主人公となって、苦難を乗り越(こ)え、幸せと勝利を、勝ち取った物語。
その歓喜(かんき)と幸せの体験に、溢(あふ)れている。

そのひとりひとりが主人公になった生(なま)の物語を、ひとりひとりが話し、聞いて、励(はげ)ましたり、励まされたりして、共感(きょうかん)と歓喜の輪(わ)が広がっていく。

だから、創価学会は発展し、世界192カ国に、広がっているとも、言えると思います。


本当に人が望むのは、テレビの中だけの物語ではない。

『自分の物語』です。

自分が主役となって、悩みや苦難を解決し、夢や希望を、かなえていく物語・・!

ほんとうは、人は、それを望んでいる。

その自分が主人公となり、夢や希望を、かなえていく物語が、創価学会には、ある。

人が本当に望むもの。人が本当に望む物語が、ここにある。
だから、創価学会には、若者が集まる。

そこに、青年が、本当に望むものが、あるからです。

その自分が主人公となり、悩みや問題を解決し、夢や希望を、かなえていけるのが、創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰であり、その一人一人が主人公となった勝利と幸せの物語を、語り、聞いて、互(たが)いに励(はげ)まし合い、歓喜して、幸せに向かって進んでいけるのが、創価学会という場所なんです・・!


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ひまわりの種152 [日常]

世の中を、見ていると、ビジネスの世界でも、「これ、だまし!じゃないのか?」と思うようなビジネスが見受(みう)けられるような気がする。健康や美容、エステなどの分野では、犯罪ではないけれど、犯罪スレスレのような販売の仕方を、している場合があるような気がする。

効果には、個人差があるとか言って、実際、使ってみたら、なんの効果もなくても、文句(もんく)を言うことは、できないし、とくに、ネット販売なのでは、そういう眉唾(まゆつば)ものの、宣伝の仕方が、多い気がする。

それらを買う方も、だめでもともとみたいな感じで、購入することが、あるかもしれません。

それらの商品は、確かに、犯罪ではないだろうけれど、ほとんど、「だまし」のような手口(てぐち)を、使っていると言うことが、できるかもしれません。

だから、それらの、健康や美容、エステなどの分野の商品は、当てにならないことが多く、だまされて、もともとのような感じが、あるような気がする。

けれど、ひつとだけ・・!

絶対に、だまされなくて良いものがある・・!

それが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰です。

この南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰だけは、絶対に、だまされないで、済(す)む・・!

どういうことかというと、やったら、やっただけ、必ず、結果が返(かえ)ってくる!ということです。
自分の人生の中で、真剣にやれば、やっただけ、必ず、幸せになっていける!!

それが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

この創価学会の南無妙法蓮華経の仏法だけは、嘘(うそ)を、つかない。
人が見ていようが見ていなかろうが、やったことが、福運(ふくうん)となって、必ず、自分の人生の中に、花開いていく!

その幸せを、つかんでいくための絶対の法則(ほうそく)が、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

だから、創価学会は、世界のどこでも、認(みと)められ広まっている。そして世界192カ国に、広まった。

それは、よくある健康や美容やエステのビジネスのように、「だまし」の要素が、まったく無いからです。自分の生命で、必ず幸せを実感し、結果として、花開いていくからです。

だから、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、宗教意識が薄(うす)れゆく現代という時代の中で、現実の人間の中に、しっかりと根付(ねづ)き、その光彩(こうさい)を、太陽のように輝(かがや)かせている。

すなわち、現実の悩みを解決し、夢や希望を、かなえていける大きな力(ちから)ある宗教として、人々を輝かせ、蘇生(そせい)させ、世界中の人々に、幸せと勝利を、もたらしている。

その人生において、絶対に、だまされることのない、必ず、幸せと勝利を、つかんでいける、真実の力(ちから)ある太陽のような宗教が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!


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