ひまわりの種343 [幸せ]

先日、ディズニーのアニメ映画、「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、少女たちが、カーレースで、勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、ヒロインのヴァネロペは、カーレースに出たくても、出ることができない、不具合(ふぐあい)をもった存在として、生きている。

いわゆる、コンピューターの中の『バグ』というやつで、ヴァネロペがカーレースに出場すれば、ゲームに不具合が発生(はっせい)し、ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、ゲームの世界の『お菓子の国』は、崩壊(ほうかい)し、みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、自分が『バグ』であるために、お菓子の国から逃(に)げることもできず、死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、ヴァネロペをカーレースに出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、ヴァネロペをカーレースに出場させず、ヴァネロペを排除(はいじょ)して、いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、やってきたラルフは、気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、ヴァネロペは、カーレースに出場する。

やがて、お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、暴(あば)かれ、お菓子の国の王は、実(じつ)は、その国を乗(の)っ取った、悪(あ)しき「ウイルス」であったことがわかる。

ラルフとヴァネロペは、そのお菓子の国を乗っ取(と)った、悪のウイルスを倒(たお)し、ヴァネロペは、カーレースで勝利して、ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、悪のウイルスに支配(しはい)されていた呪縛(じゅばく)が解(と)け、お菓子の世界は、劇的に、美しく、平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、劇的に変化して、素晴らしい女王の姿(すがた)を現(あらわ)す。



ふと、考えるに、ヴァネロペは、自分が、このお菓子の世界で、不具合(ふぐあい)、すなわち、「バグ」として生き、みんなから蔑(さげす)まれ、のけ者にされて生きることもできた。


けれど、ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、選んだ・・!!


ゆえに、レースに出場して、偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、暴かれ、ヴァネロペはゴールして、勝利した。


これが、もし、ヴァネロペが、自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、諦(あきら)めて、レースに出なかったら、どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、何も変わらず、ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、一歩、踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、自分自身で、自分を、だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、お菓子の国の「偽りの王」、「悪のウイルス」に、だまされているのと同じで、自分の中の悪(あく)のウイルスが、自分の「本当(ほんとう)の姿」、すなわち「幸せ」を、出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、だまされていたら・・、ドラマもストーリーも、始まらない。


まして、幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!



仮(かり)に、自分が、不遇(ふぐう)であり不幸であったとする。

そうであったならば、環境や、周(まわ)りの状況、周りの人たちの見方や考え方に、甘んじている必要は、ないと思う。


試(ため)しに、映画・シュガー・ラッシュのように、その環境をつかさどる、国や世界、王のほうが、偽りの、悪しきウイルスであり、間違っていると、自分の環境や状況を、ゲームのような感覚(かんかく)で想像(そうぞう)してみたら、何かの新しい視点(してん)が、見えてくるかもしれない・・。

自分が、ヴァネロペのような立場(たちば)だと、想像してみたら、ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、いったん、解放されて、精神的(せいしんてき)に、楽(らく)になるかもしれない。

さらに、それを、きっかけにして、良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、人が持っている「宿命(しゅくめい)」というものは、生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた運命や境遇(きょうぐう)、そこから引(ひ)き起こる、さまざまな悲しみ、苦しみ、どうして自分だけがと思うような、辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、どうしても避(さ)けることのできない宿命のようなものを、仏法(ぶっぽう)では、『宿業(しゅくごう)』という。

それは、自分の中に宿(やど)ってしまっている『業(ごう)』であり、この「宿業」があるから、人は苦しみ、悲しみ、幸せになれないまま、不幸を背負(せお)って、生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、そんじょそこらのことでは、打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、その宿業を打ち破る、唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、創価学会(そうかがっかい)の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、『ご本尊(ほんぞん)』だと、言えます。

この『宿業』だけは、創価学会の人たちが、となえている、『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、本当にそうだから、しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。


※ちなみに、「ご本尊」とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、同時に、自分の生命そのものを、表現したものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。



人気のマンガ、『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、主人公の炭治郎(たんじろう)が、修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、「岩を切れ!」というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、炭治郎は、とても、岩が、刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、炭治郎が、岩を切るために、さまざまな苦心(くしん)で努力をしている時に、炭治郎の前に、少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、炭治郎に襲(おそ)いかかり、それ以来、二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、とても強く、炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、その少年の剣士は、鬼(おに)に殺された剣士の幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、登場して、炭治郎に、さまざまな「知恵」を、さずける。

炭治郎は、最後まで、二人の剣士が、幽霊であることには、気づかなかったが、二人のおかげで、成長していく。

やがて、まったく歯が立たなかった少年剣士と、互角(ごかく)に、戦えるようになっていき、鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、つかんでいく。

そして、炭治郎が、初めて少年剣士に勝ったとき、少年剣士は、にっこり笑って、消えていく。


そのとき、なぜだか、岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、なにか、すごい力(ちから)で、岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、そうは描かないで、ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、成長し、岩が切れたというのは、とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、思った。


思うに、岩と、炭治郎だけだったら、客観的(きゃっかんてき)にも、岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、二人の子供剣士の幽霊が、加(くわ)わることによって、何かが生まれ、人間の中にありながら、人間の意識を超(こ)えた『何か』の働きによって、岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。けれど、それを出すことは、考えもしない。

たとえば、思いもしない力(ちから)、思いもしない可能性、思いもしない希望、思いもしない才能(さいのう)、思いも及(およ)ばない知恵、


そして、思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、それを出すことのできる武器(ぶき)が、実は、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、ご本尊(ほんぞん)だと、たとえることが、できます。



前の、「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、宿業を断ち切ることのできる、マンガ・鬼滅の刃でいえば、岩を切ることができる、その、人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』が、「南無妙法蓮華経」であり、「ご本尊」であると言えば、わかりやすいかもしれない。

また、宿業を断ち切るためには、「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、鬼滅の刃の、二人の幽霊剣士のような役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』という言葉を、使う。

「妙法」とは、「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、「妙法の利剣」でないと、「宿業(しゅくごう)」という岩は、切ることができない。

それは、鬼滅の刃の中で、日輪刀(にちりんとう)という、年中日光を浴びている特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、鬼を倒(たお)すことができないのと、同じです。

普通の刀(かたな)で、鬼を、どんなに切っても、首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、「宿業」を「鬼」にたとえるならば、宿業という鬼は、「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、妙法の利剣、すなわち、「南無妙法蓮華経」でないと、断ち切ることができない!ということです。


やがて、妙法の利剣である「南無妙法蓮華経」で、宿業(しゅくごう)を断ち切ることができたならば、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、悪のウイルスの王を打ち破ったように、自分の世界が、不幸から、幸せの世界に、変わっていく。


悩みが、解決していく。夢や希望が、かなっていく!!ということです。


それが、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えると思います。


それは、あたかも、マンガ・鬼滅の刃の中で、炭治郎が、岩を、切ったように・・・!!


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ひまわりの種338 [幸せ]

人気のあるマンガ、あるいはアニメに、
「進撃(しんげき)の巨人」というのがあります。

その「進撃の巨人」の中で、
「女型(めがた)の巨人」というのが
出てきます。

女型の巨人は強力な敵(てき)で、最終的に、この女型の巨人と主人公であるエレンは、戦うことになるのだけれど、
その女型の巨人の正体が、軍の訓練兵として3年間、同じ釜の飯(かまのめし)を食べた仲間である、アニであることを知って、エレンは戦うことができない。

エレンの巨人化の能力を使うためには、確固(かっこ)たる目的が必要で、目的がはっきりしないと、エレンは巨人化の能力を使うことができない。

敵であるアニが、訓練兵時代の仲間であったために、それがブレーキとなって、どうしても巨人化することができない。

最終的には、他の仲間の叱咤激励(しったげきれい)によって、エレンは巨人化してアニと戦うが、エレンが躊躇(ちゅうちょ)し巨人化できなかったのも、ごもっともだとも思う。


何かの明確な目的がないと、どんなにスゴイ力(ちから)も使うことができない・・・。

明確な目的を持って、本当にそうしようと思わないかぎり、その力を使うことができない。


確かにそれは、うなずける。


目的もなく、本当にも、そう、思っていなかったら、その力が出てくるとは思われないからです。

また、自分が、目的のもと、本当にそうしようと思うから、その力を発揮していくことができる。


これは、アニメやマンガの中だけの話しではなくて、現実の中でも、そうだと思う。


人は、何かの目的を持って、ほんとうにそうしようと思わなかったら、その力を発揮(はっき)することができない。

目的に目覚(めざ)め、ほんとにそうしようと思うから、そのように行動し、それを成し遂(と)げていく。

はっきりとした目的意識をもって、ほんとうにやろうと思う時、そのための、さまざまな知恵や能力を発揮し、自分が実現したいことを成(な)し遂げていく。


それが、人間というものだと思う。


けれど、それが難(むずか)しいのも、現実だと思う。

だから、幸せになりたいのに、なかなかなれないことも、多々(たた)あると思う。

また、不幸に沈(しず)んでいってしまう人々も、多くいる・・。

やはり、幸せになっていくためには、明確な目的意識と、それを開花させていくための『方途(ほうと)』が、必要になってくると思う。

その明確な目的意識と、それを実現していくための方法と行動が噛(か)み合っ時、人は幸せになっていけるのではないか・・!と思う。


実は、その、幸せに対する明確な目的意識と、それを実現していく究極(きゅうきょく)の方法が、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

創価学会が実践(じっせん)する、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰は、自分の中に、幸せに対する最高の目的意識をもたせてくれる。

目的意識を持つというよりも、南無妙法蓮華経をとなえていると、自分の中から、幸せになろうとする、「最高の意識(いしき)」が、自然に湧(わ)き上がってくる。

やがて自分の中から湧き上がってきた「幸せに対する最高の意識」は、さまざまな知恵や勇気、行動となって、その人を動かし、結果として、その人を幸せにしていってしまう。


南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の中から、幸せに対する最高の意識を目覚(めざ)めさせ、幸せに対する最高の目的、また、幸せに対する最高の生命力、最高の勇気や知恵をもたらし、それは、自分の中から、さまざまな力(ちから)、能力や可能性を発揮(はっき)することになっていき、そうなった時、おのずから、その人は、幸せになっていくことができる。


それが、創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰』
だということです。

また、南無妙法蓮華経をとなえることの可能性と力(ちから)は、無限大なので、南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、自分だけでなく、まわりの人々、環境や世界からも、幸せをもたらす、さまざまな可能性を引き出し、それは、結局(けっきょく)、自分のいる世界、環境を幸せに変えていくことになる。


ゆえに、勝利していける。
幸せになっていける。



進撃の巨人の中のエレンのように、人は人生において、
戦うか戦わないかの、瀬戸際(せとぎわ)に立たされる時が、ある・・・!!

その時に、勝つか負けるかは、
その人の中にある、
『目的意識』にかかっている。

その『目的意識』が、真(しん)に正しく、強靱(きょうじん)なものであるならば、その人は、どんな瀬戸際(せとぎわ)に立たされたも、戦うことができる。

そして、勝つこてができるだろう。

その最も正しく、最も強靱(きょうじん)な目的意識を持つことができるのが、この創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えます。

幸せと平和に対する、
これ以上素晴らしく、
これ以上強靱な目的意識は、
ありません!!

また、幸せと平和に対する、
これ以上の希望であり、
エネルギーもありません。

幸せと平和に対する、
無限(むげん)の力(ちから)となるもの!

それが、
創価学会の、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。


だから、創価学会の人たちは、
幸せになっていけるんです・・!

また、創価学会の信仰と、
他の信仰との違(ちが)いは、
ここにあります!!!

どんな苦難(くなん)の中でも、
どんな絶対絶命(ぜったいぜつめい)
の時であろうとも、
平和と幸福に対する、
最高の目的意識をもって、
立ち上がることができる。

エレンが立ち上がったように・・!

そして、勝利していける!!!


・・・
重要なことは、創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる』という仏法の実践が、
自分の中から、幸せに対する最高の目的意識を、
『現実に、湧(わ)き上がらせる!!』ということです。

そして、それにともない、幸せをもたらすための、
最高の生命力、
最高の勇気、
最高の知恵が、
実際に湧(わ)き上がってくる!ということです。


それは結局、自分の中から、さまざまな可能性を発揮していくことにつながり、やがて、
悩みの解決や、夢や希望の実現など、
さまざまなことを可能にし、
その人に勝利と幸せをもたらしてくれる。


あたかもそれは、
「進撃の巨人」の中で、
エレンが、明確な目的を持った時、
巨人化という、とてつもない力を
発揮できたように、
大きな大きな可能性と力を、
発揮してくれる・・・。

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ひまわりの種335 [幸せ]

幸せについて考える時、いろいろな基準(きじゅん)や考え方は違(ちが)うと思うけれど、ぼくが思うに、意識する、しないは別にして、幸せになる人というのは、基本的に、本気で幸せになろうとしているのではないか?・・と思う。

幸せになる人というのは、本気で幸せになろうとしているから、幸せになる・・・。

そういう考え方にも、一理(いちり)あるのではないか・・と思う。

ところが、幸せにならない人というのは、確かに幸せにはなりたいけれど、「自分なんか幸せにはなれないのではないか・・」とか、ああだ、こうだ、と余計(よけい)なことを考えて、実は、ほんとうに幸せになろうとは思っていない場合もあるのではないだろうか・・。

ほんとうに幸せになろうと思っていないのだから、結果として、本当に幸せになるはずがない・・・。

そう、言えると思います。

だれでも幸せになりたいけれど、環境(かんきょう)や周りの人々、世間(せけん)のことばかり気にかけて、自分の境遇(きょうぐう)や世の中のせいにして、幸せにならない理由を並(なら)べ立てる。

そこに盲点(もうてん)があるのかもしれない。

幸せになる、ならないは、実は、自分の外にあるものによって決まるのではなく、自分の中にあるものによって決まる。
幸せになるか、ならないかという責任(せきにん)は、自分の外にあるのではなく、『自分の中』にある。

そう言えるかもしれない。


問題は、自分の中にあり、自分の中にある「なにか」を、幸せにしていかなかったら、幸せになるはずがない・・。


自分は本当に幸せになろうとしているのだろうか?
実は、幸せになろうとしていないのではないか?


そこに問題があるのかもしれない。


では、『本当に幸せになろうとする』とは、どういうことだろうか・・?
『本当に幸せになろうとする』といったって、漠然(ばくぜん)としていて、よくわからない。
意味がわからない・・・。

だから、漫然(まんぜん)と生きるしかなくなっていくのかもしれない。

その、『本当に幸せになろうとする』ということ。
自分の生命自体を、『本当に幸せにしよう!とする』ということが、実(じつ)は、創価学会(そうかがっかい)の人たちが実践している、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!』と、いうことなんです。

『南無妙法蓮華経をとなえる』ということは、自分の生命自体を、本当に幸せにしようとする!ということなんです。
また、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまう!!のが、『南無妙法蓮華経』だとも言えます。

南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまうことなんだから、その結果として、幸せにならないわけがないんです。だから、幸せになっていける。現実に、悩みや問題を解決して、夢や希望を、かなえていける。

自分の生命自体を、そういうふうにしてしまう!!のが、『南無妙法蓮華経をとなえる』ということだと思います。

だから、創価学会の人たちが、幸せにならないわけがなく、現実に悩みを解決し、夢や希望をかなえて、世界中の人々が幸せを勝ち取っています。


南無妙法蓮華経の力と可能性は、計り知れないから、一概(いちがい)には言えないけれど、南無妙法蓮華経をとなえることは、自分の生命の中から、本当に幸せになろうとする力を呼び覚(さ)ます。本当に幸せになっていく生命の力を無限に湧(わ)き上がらせ、輝(かがや)かせていく。

その結果として、悩みを解決できたり、生命を蘇生(そせい)させて病気を克服(こくふく)できたり、夢や希望をかなえていけるようになっていく。

それが『南無妙法蓮華経』であり、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことではないかと思う。


南無妙法蓮華経をとなえることがスゴイと言っても、いまいち、ピンとこないかもしれないけれど、池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、詩の中で、こういうことを言っています。


「だれもが、宇宙の無限(むげん)の力を秘(ひ)めた「小宇宙(しょううちゅう)」である。
だから、あの「太陽」も自分の中にある。
自分の中に輝(かがや)く「銀河(ぎんが)」もある。
星々(ほしぼし)をわたりゆく無数の光が、この胸(むね)の中にある。
「内(うち)なる宇宙」も無限である。
だから、私は言っておきたい。
どんな悩みがあっても、
君は負けるな!
どんな障害(しょうがい)があっても、
夢をあきらめるな!
自分の中に「太陽」を輝かせて生き抜(ぬ)こう!」


ぼくが思うに、南無妙法蓮華経をとなえて生きるとは、こういうことだと思う。
南無妙法蓮華経をとなえて生きるとは、自分の中の内なる宇宙を、無限に輝かせ、どんな悩みも、どんな障害も乗り越えて、夢や希望をかなえ、幸せを勝ち取っていくことだと思う。
また、それができる!のが、南無妙法蓮華経をとなえる生き方だと思う。

だから、『南無妙法蓮華経をとなえる』ということは、自分の生命自体を、本当に幸せにしてしまう究極(きゅうきょく)の行動であり、それゆえに、必ず幸せになっていける・・!


それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです・・・。

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ひまわりの種332 [幸せ]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『ともあれ、これからも、我らの世界広布(せかいこうふ)の前進は、決して止まらない。

なぜか?

それは、幸福を求め、平和を願う友が待(ま)っているからです。
仏法(ぶっぽう)の生命尊厳(そんげん)の哲理(てつり)を、世界の民衆が渇仰(かつごう)してやまないからです。』

ちなみに、世界広布(せかいこうふ)とは、創価学会(そうかがっかい)が実践している、仏法(ぶっぽう)の哲学(てつがく)と思想を基調(きちょう)にして、世界に平和と幸福をもたらしていくことを言います。


創価学会が実践(じっせん)していることは、なにか特別なことではない。一部の人だけに必要となるものでもない。

すべての人が求め、欲(ほ)しているもの・・!!

それが、創価学会の『仏法(ぶっぽう)』です。

池田先生が言うように、世界には、幸福を求め、平和を願う友が待っている。

その、世界の民衆が渇仰(かつごう)してやまない、生命尊厳(そんげん)の哲理(てつり)が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の哲学(てつがく)だということです。

だから、創価学会は広がり続ける。

疑(うたが)いや偏見(へんけん)があったとしても、すべての人は平和と幸せを求めている。

ゆえに、最終的には、疑いや偏見を乗り越(こ)え、この創価学会の仏法の哲理(てつり)にたどり着く・・!

それは、だれでも、幸せを求めているからです。平和を求めているからです。
その明確な哲学(てつがく)、人生を幸せにしていくエネルギー、力(ちから)が、創価学会の仏法(ぶっぽう)には、確実にある!!ということです。


だれでも、夢があり、希望がある。

また、だれでも、さまざまな現実の悩みがある。

その夢や希望、現実の悩みに対して、いったい、どうしたらいいのか?

だれでも、夢や希望の実現や、悩みの解決に向かって、一生懸命(いっしょうけんめい)、努力していくと思う。

けれど、ほんとうに悩みや問題を解決できるのか・・?
ほんとうに、夢や希望をかなえていけるのか・・?
と考えた時、そこには、さまざまな問題があり障壁(しょうへき)がある。
また、どうしても越えられない宿命(しゅくめい)がある場合もある。

いったい、その宿命に対して、それを明確に打ち破(やぶ)り、解決していく方途(ほうと)があるのか・・?

世間は、それを、だれも示(しめ)していない・・。
だれも、明確な答えを出してくれない。

その宿命に泣き、不幸に落ちていった人たちが、どれだけ多いことか・・。

その宿命に対して、明確な解決方法と力(ちから)を持ち、人生を希望へ幸福へと、確実にもっていっていくことのできる哲学であり力が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです。

だから、創価学会は、世界に広がり続ける。

それは、当たり前の結果だからです。
必然(ひつぜん)の結果として、創価学会は、また一人、また一人と、広がり続ける。

それは、創価学会が、本当に、世界中の、どんな「ひとり」であろうと、その人の悩みを解決し、夢や希望をかなえる、現実的な、決定的な力であることの、証明(しょうめい)になっていると、心から思う・・・。

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ひまわりの種331 [幸せ]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『生きるということは、宿命(しゅくめい)との壮絶(そうぜつ)な格闘(かくとう)といってよい。
それに打ち勝ってこそ、幸せはある。勝つか、負けるか - - - - その避(さ)けがたき現実を直視(ちょくし)する時、信仰という生命の力の源泉(げんせん)をもち、何ものにも揺(ゆ)るがぬ人間の芯(しん)を確立する必要性を、痛感(つうかん)せざるを得(え)ない。』

信仰といっても、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教のようなものとは、まったく違う。

それらの葬式仏教や神社信仰、観光宗教が、なんの足(た)しにもならないことは、わかりきっているし、かりに、どんなに真剣にやったとしても、なんの効力(こうりょく)もないでしょう。かえって、それらの宗教は、デタラメな間違った宗教であるがゆえに、逆に、真剣にやればやるほど、その間違ったデタラメの結果として、その人に害(がい)をもたらし、その人を不幸にしてしまう・・!

それが、本当のことろです。

そうではなくて、生命の力の源泉(げんせん)をとなるもの、何ものにも揺(ゆ)るがぬ人間の芯(しん)を確立できるものが、真実の信仰であり、それが、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。



人は、だれでも、おもしろおかしく生きたいと思っている。

楽しく、軽快(けいかい)に、幸せに生きたいと思っている。

また、世間は、その表面上の華(はな)やかさ、軽快さ、スマートなかっこ良さをもてはやし、宣伝(せんでん)しているようにも思う。

けれど、現実は違う。すべての人に宿命(しゅくめい)がある・・。

そして、その宿命との壮絶な戦いがある。

そして、その宿命に勝つか、負けるか。

この避(さ)けがたい現実がある。

実は、幸せとは、見た目の華やかさや、きらびやかさではなく、その宿命に勝っていけるのか?いけないのか?

ここにあるのでは、ないだろうか・・・!

宿命に勝っていけるのか?いけないのか?

ここに、幸せか、そうでないかの境目(さかいめ)があるのでは、ないだろうか!

おそらく、幸せとは、どんな宿命も、悠々(ゆうゆう)と乗り越えていける境涯(きょうがい)、また、そのどんな宿命も乗り越えていける大生命力(だいせいめいりょく)の中にあるのではないだろうか・・。

その大生命力を持ち、生ききっていくところに、本当の幸せはあるのではないだろうか。

では、その大生命力を湧(わ)き上がらせて、悠々(ゆうゆう)と生きていく、その「生命力」は、いかにして湧き上がらせ、つかんでいくことができるだろうか・・・?

その生命力を無限に湧(わ)き上がらせ、苦難を乗り越え、人生を勝っていけるのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。

現実問題として、宿命を乗り越え、勝っていける方法は、この創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰しかない!!ということです。


南無妙法蓮華経は歓喜(かんき)の中の大歓喜だという。

南無妙法蓮華経をとなえること以上の遊楽(ゆうらく)はない!とも言う。

それは、文字通り、南無妙法蓮華経をとなえることほど楽しいことはない!ということであり、南無妙法蓮華経をとなえることほど有意義(ゆういぎ)なこともない!ということです。

なぜならば、南無妙法蓮華経をとなえることは、宿命を打ち破り勝っていける、唯一(ゆいいつ)の方法だからです。
宿命を打ち破り勝っていける方法がこれしかない!ということは、南無妙法蓮華経をとなえることは、本当の幸せをつかむ、唯一の方法だ!ということです。

だから、これ以上楽しいこともないし、これ以上幸せなこともない。

だから、南無妙法蓮華経をとなえると、自分の生命が歓喜してくるんだと思う。

それは、自分が幸せをつかんでいる証拠(しょうこ)であり、宿命に打ち勝っている証拠だと思う。

ゆえに、悩みを乗り越え、困難を打ち破り、夢や希望をかなえて、幸せになっていける!


池田先生が言うように、生きるということは、宿命との壮絶な格闘です。
それに打ち勝ってこそ、幸せはある。

そして、その宿命に勝っていける生命の力の源泉(げんせん)、何ものにも負けない、幸せの芯(しん)を確立していけるのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だということです・・!

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ひまわりの種322 [幸せ]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『御書(ごしょ)に、「教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)をうごかし奉(たてまつ)れば、ゆるがぬ草木(そうもく)やあるべき・さわがぬ水やあるべき・・」と仰(おお)せの通り、ご本尊(ほんぞん)への必死の祈りは、一切(いっさい)を動かしていく。』

ちなみに、御書(ごしょ)とは、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が書かれた、論文や手紙をすべて集めたものです。

また、ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることをあらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。

ここで、まず引っかかるのは、当然(とうぜん)これは、創価学会(そうかがっかい)の南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰のことを言っていますが、創価学会の信仰と、『釈尊(しゃくそん)』は関係あるのか??ということです。

釈尊とは、ブッダとも釈迦(しゃか)とも言われていますが、いわゆる仏教の創始者(そうししゃ)ですから、知っていると思います。日本のさまざまな仏教の大元(おおもと)は、この釈迦(しゃか/釈尊)から来ていると言えます。

ただし、現代の日本の仏教は、釈迦(しゃか)の仏法(ぶっぽう)とは、かけはなれたもので、単なる形だけです。釈尊(しゃくそん)の教えのかけらもない!と言ってもいいでしょう。だいたい、釈尊は、『坊主は葬式(そうしき)に出てはいけない!葬式というものは親しい知人や家族でやるものだ。 そんな暇(ひま)があったら、今、苦しんでいる人のもとに行ってあげなさい。』と言っているので、坊主が葬式でお経(きょう)をあげるのは、仏教でもなんでもない。ただの金儲(かねもう)けのエセ宗教だと言えます。

形だけ真似(まね)て、お金儲けに利用しているだけですから、かえって害(がい)になり、そんな害になるものを人々に信じ込ませていれば、その人々に害毒(がいどく)が伝わり、その人たちを不幸にしてしまう!ということです。

どういうことかというと、間違(まちが)ったデタラメの宗教に祈るということは、その間違ったデタラメの宗教に、自分の生命と人生をささげることになります。間違ったデタラメの宗教に自分の生命と人生をささげていけば、当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、間違ったデタラメなものになっていく。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったならば、その結果として、さまざまな不幸がもたらされてしまう!ということです。

不幸の根源(こんげん)には、形骸化(けいがいか)した仏教にかぎらず、神社信仰や観光宗教など、それらの間違った宗教がある!ということです。


話しを戻(もど)しますが、釈尊は、仏教の創始者(そうししゃ)です。そして、釈尊が、何を伝えようとしたか?というと、それは、『生命の法則(ほうそく)』であり『宇宙の法則』です。簡単(かんたん)に言えば、それは、『幸せになるための法則』です。

それを、釈尊は、伝えようとしました。

そして、その幸せになるための究極(きゅうきょく)の法則がこめられたものが、釈尊の『法華経(ほけきょう)』です。
だから、釈尊の法華経には、その生命における、あるいは宇宙における、『幸せになるための法則』が込(こ)められています。

だったら、その釈尊の法華経(ほけきょう)をやればいいじゃないか・・!と思うかもしれませんが、それも違(ちが)います。

法華経というと、釈尊の法華経を思い浮(う)かべますが、法華経というのは、さっきも言ったように、幸せになるための法則です。そして、それは時代時代によって、表現の仕方(しかた)が違ってきます。

釈尊の時代であれば、その、釈尊の法華経をやれば、幸せになれましたが、現代では、なれません。この現代に、釈尊の法華経をいくら、やったとしたも、幸せにはなれないし、何の効力(こうりょく)もありません。

これは、釈尊自身が言っていることですが、釈尊が亡(な)くなってから2000年以上経(た)った、この現代という、思想・人心が乱(みだ)れた時代では、釈尊の法華経は、返って害(がい)になり、人々を不幸にする原因(げんいん)にしかなりません。

だから、現代の日本のさまざまな仏教は、良く見積(みつ)もっても、その釈尊の仏教の域(いき)をでていないし、はっきり言えば、釈尊の仏教を適当(てきとう)に変え、めちゃくちゃにしたような宗教ですから、なんの効力もなく、幸せにもなれません。 返(かえ)って、でたらめなメチャクチャな宗教ですから、そのメチャクチャの当然の結果として、害になり、人々を不幸にしてしまう!ということです。


では、釈尊が、本当に伝えようとした『幸せの法則』とは何なのか?

さきほど、法華経といっても、時代時代によって、表現の仕方(しかた)が違うと言いましたが、今生きている人々を、現実に幸せにしていける『現代の法華経(ほけきょう)』とは何なのか??ということになっていきます。

実は、その答えが秘(ひ)められているのが、釈尊の法華経だと言えます。

その釈尊の意図(いと)と隠(かく)れたメッセージをくみとり、唯一(ゆいいつ)正しく理解し、その現代の人々が幸せになっていける『真実の法華経』を発見し広めたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。

そして、現代の人々が幸せになっていける、『真実の幸せの法則』『生命の法則』『宇宙の法則』が、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』なんです。

だから、『南無妙法蓮華経』とは、釈尊が本当に伝えたかったものなんです。

そして、『南無妙法蓮華経』が、今生きている人々が真(しん)に幸せになっていける、『現代の法華経』なんです。

だから、今、現実に効力(こうりょく)のある、悩みを解決していける、夢や希望をかなえていける、力(ちから)ある幸せの法則が『南無妙法蓮華経』であり、それが、『現代の法華経』です。

ですから、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる信仰は、釈尊が真に伝えたかった法華経であり、人々を幸せにしていける、仏法(ぶっぽう)の究極(きゅうきょく)の真髄(しんずい)なんです。

だから、創価学会と釈尊は、深く密接(みっせつ)な関係があり、釈尊が望み、伝え、実現したかったものが、創価学会の中にある!!!
ということです。

釈尊が望んだもの、釈尊が望み実現したかったものが、まさしく、創価学会によって実現されている!!ということです。

だから、最初に

「『教主釈尊(きょうしゅしゃくそん)をうごかし奉(たてまつ)れば、ゆるがぬ草木(そうもく)やあるべき・さわがぬ水やあるべき・・』と仰(おお)せの通り、ご本尊(ほんぞん)への必死の祈りは、一切(いっさい)を動かしていく。」

と話したように、創価学会のご本尊への必死の祈りは、そのまま『釈尊』に通じていく。なぜなら、創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、釈尊の望み、願いそのものであり、『南無妙法蓮華経』が釈尊が伝えたかったことだからです。

ゆえに、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、釈尊のいう宇宙の法則、生命の法則、幸せの法則を実行することになり、それはいわば、釈尊自身をうごかすような大きな結果を生み、その結果、悩みを解決できたり、夢や希望をかなえていけたり、さまざまな困難(こんなん)も乗り越(こ)えて、幸せになっていけるわけです。

それが、創価学会の祈りなんです。

ゆえに、池田先生が言うように、
『教主釈尊を動かすことができれば、ゆるがぬ草木はない!さわがぬ水はない!』
そして、祈りをかなえ、幸せになっていける!!


それが、釈尊が本当に伝えたかった宇宙と生命の幸せの法則であり、究極の力(ちから)である、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・!

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ひまわりの種321 [幸せ]

日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)が、言っています。

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)え奉(たてまつ)るは自身の宮殿(きゅうでん)に入(い)るなり。』

この日蓮大聖人のご文について、池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『いかなる状況(じょうきょう)にあっても、題目(だいもく/南無妙法蓮華経のこと)を唱(とな)えれば、生命は「宮殿」に入っている。魂(たましい)は王者である。最後は必ず幸福になる。皆、立派(りっぱ)な勝利者の人生を綴(つづ)ってもらいたい。』

南無妙法蓮華経をとなえたならば、自分の生命は『宮殿(きゅうでん)』に入っている。

どういうことだろうか・・。

生命の宮殿・・・。

それは、どう考えても不幸なものではない。幸せなものだ。
宮殿とは、素晴らしいものであり、光り輝(かがや)く豪勢(ごうせい)なものだ。
すなわち、最高にきらびやかで、優雅(ゆうが)で威厳(いげん)があって素晴らしく、黄金(おうごん)のように輝く存在と言えるかもしれない。

まさにそれは、幸せそのものと言えるかもしれない。

南無妙法蓮華経をとなえるということは、その『宮殿』に入ること・・・!

それは、まさしく、勝利をあらせてしてるし、幸せを表(あらわ)している。

そして、自分の生命が宮殿に入ったならば、おのずから、幸せがもたらされていく。

悩みを解決でき、時とともに、自分の望む人生、自分が望んだ未来、希望がかなっていく。

そう言えるかもしれない。

けれど、もし、自分の生命が宮殿に入っていないとしたら、かりに今良かったとしても、暗澹(あんたん)とした未来が待ち受けていたり、苦しく、望まない人生になってしまうことも多々あると思う。

生命の宮殿・・!

その生命の宮殿を築(きず)くことができるのが、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。


生命の宮殿に入るとは、自分の生命の根(ね)っこにあるものを、ダイヤモンドのように輝(かがや)かせることだと思う。

その、生命の根っこにあるものが、ダイヤモンドのように輝いたならば、おのずと、そこから、希望と勇気、幸せと勝利がもたらされていく。

だから、生命の根っこは、大切!!!

だから、生命の根っこを、より良く、より素晴らしく変えていくことができたならば、その人の人生は、希望に満(み)ち、幸せになっていく。

けれど、自分の生命の根っこが、腐(くさ)っていたり、元気がなかったら、実際、根本的(こんぽんてき)には悩みや問題は、解決していかないし、夢や希望も、かなえていくことは、できないでしょう。

そうなれば、結局(けっきょく)、夢や希望もなくなっていき、自分が望む人生を生きないまま、人生を終えることになる。

夢や希望、自分の望む人生を生きるためには、やはり、生命の根っこを輝かせなければならない。

根本のところ、生命の根っこ・・。

その生命の根っこが、ダイヤのごとく輝いていったとき、自分の人生も、環境も、未来も、輝き、幸せがもたらされていく。

その生命の根っこを、黄金(おうごん)ように、太陽のように、輝かせることが、『南無妙法蓮華経を、となえる!』ということであり、それが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰であり、それが、『生命の宮殿に入る!!』というこだと、思う・・・。


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ひまわりの種320 [幸せ]

二十世紀の天才ヴァイオリニストであるユーディー・メニューイン氏は、いつもマッサージを頼(たの)む、知人の女性がいた。

ある時、メニューイン氏は、そのマッサージを頼む女性に言った。

「あなたのマッサージは素晴らしい。まるで指が話しかけているようだ。」

そして、マッサージの秘訣(ひけつ)を尋(たず)ねると、女性は答えた。

「私は仏教徒(ぶっきょうと)なんです。マッサージをする時は、心で南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)えるんです。」

仏教徒というのは、創価学会員(そうかがっかいいん)のことで、イギリスの婦人部員だった。

「ナンミョウホウレンゲキョウ・・・・・素晴らしい音律(おんりつ)だ。」

以来(いらい)、メニューイン氏は南無妙法蓮華経を口ずさむようになり、池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)の著作(ちょさく)を読破(どくは)していった。

そして、思った。

池田SGI会長に会いたい!!

そして、数年後、メニューイン氏は、池田SGI会長と会見することになる。

会見の中で、メニューイン氏は、言っています。

『「南無妙法蓮華経」の「NAM」という音に、強い印象(いんしょう)を受けます。「M」とは命の源(みなもと)というか、「マザー (MOTHER)」の音、子どもが一番最初に覚(おぼ)える「マー(お母さん)、マー」という音に通じます。この「M」の音が重要な位置を占(し)めている。』

この言葉に対し、池田先生は、言っている。

『日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)は、「南無妙法蓮華経」を「歓喜(かんき)の中の大歓喜」「歓(よろこ)びの曲」である、ともされました。妙法(みょうほう/南無妙法蓮華経のこと)の音律(おんりつ)は、太陽が昇(のぽ)るような躍動(やくどう)の音律です。「永遠の創造(そうぞう)」であり「永遠の出発」であり、「永遠の戦い」である宇宙の大生命力が、こもっているのです。』


メニューイン氏が、マッサージを頼(たの)む知人の女性に感じたように、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことによってもたらされるエネルギーは、人に伝わる・・!

その『南無妙法蓮華経をとなえる』エネルギーは、真心(まごころ)となって伝わったり、感動となって伝わったり、また、具体的(ぐたいてき)に病気などを蘇生(そせい)されるエネルギーとなった伝わることもある。

ある創価学会員の看護士の方が、南無妙法蓮華経をとなえる祈りについて、
「手から、毛穴から、祈りは、すべて、通じていく!」
と言っていた。

『南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、通じる!』

単(たん)なる一時しのぎでも、でまかせでもなく、自分ひとりの問題でもなく、南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、人々に通じていく!!

ここに『南無妙法蓮華経をとなえる』スゴサがあるのかもしれない。

また、『南無妙法蓮華経をとなえる』ことによって、もたらされるエネルギーは、人に伝わるだけではなく、人に幸せをもたらしていく。南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、幸せのエネルギーとなって、人へ、未来へ、世界へと伝わっていく。そしてその幸せのエネルギーは、地域や社会、職場や家庭に伝わり、その環境(かんきょう)をより良く、幸せに変えてくことなる。

また、当然(とうぜん)、南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、自分自身に伝わっていく。南無妙法蓮華経の幸せのエネルギーは、自分自身に伝わり、しみ入り、自分自身を幸せに変えていく。
そしてその幸せのエネルギーは、自分の悩みを解決したり、夢や希望をかなえる力となっていく。

あらゆるものを、あらゆる人を、あらゆる環境を、より良く、幸せにしていくエネルギーが、『南無妙法蓮華経』だということです。

ゆえに、これほどスゴイことはなく、これほどの解決策(かいけつさく)もない。

結論(けつろん)から言うと、南無妙法蓮華経をとなえきった人が、幸せになるとも言えます。


メニューイン氏が思ったように、南無妙法蓮華経をとなえるエネルギーは、人に伝わる。伝わるだけではなく、その人たちを幸せにしていく。また、家族や職場、地域や世界に伝わり、その世界に幸せを満(み)たしていく。

その無限(むげん)に伝わる究極(きゅうきょく)の幸せのエネルギーが『南無妙法蓮華経』であり、その幸せを確実にもたらすのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・・。


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ひまわりの種319 [幸せ]

創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、結論(けつろん)から言うと、あらゆるものを、あらゆる事象(じしょう)を、あらゆる人々を、幸せへと引(ひ)っぱり導(みちび)いてくれる。

それは、自分だけではなく、家族や自分のかかわる人々にまで影響(えいきょう)を及(およ)ぼし、その人たちに最善(さいぜん)の幸せを、もたらしてくれる。

時には、悲しいこと、辛(つら)いこともあるかもしれない。けれど、時とともに、自分が、家族が、最善の方向に進み、最良(さいりょう)の幸せをもたらしていたことが、わかってくる。


それが、実感(じっかん)として言える。


これほどの力(ちから)があるだろうか・・・?


現実に、これほどの幸せをもたらす力は、あるだろうか?


はっきり言って、他にはない・・!!


この、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法(ぶっぽう)でしか、この現実の中で、確実に、幸せと歓喜(かんき)をもたらす方法は、ない!!!

それは、あらゆるものが積(つ)み重なり、関係し合い、ひとつひとつの事象(じしょう)からはわからないかもしれないけれど、それが重(かさ)なり合い、信じがたい錬金術(れんきんじゅつ)のように、すべてが、微妙(びみょう)に、しかも完璧(かんぺき)に結(むす)びつき、結果として、最高の幸せをもたらしている。

そういう目には見えない奇跡(きせき)をもたらしていく力が、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰にはある!ということです。

そして、その幸せの奇跡が、どれだけ多くの人を、幸せにしてきたか!!どれだけ多くの人の悩みを解決(かいけつ)し、夢や希望をかなえてきたか!!。それこそ計り知れない。


その積み重ねが創価学会であり、世界192カ国に広がる創価学会の、平和と幸福のスクラムだと、思う・・・。


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ひまわりの種314 [幸せ]

人類が直面(ちょくめん)する地球規模(きぼ)の問題群(もんだいぐん)を研究し、危機回避(ききかいひ)への提言(ていげん)を発(はっ)する国際的な有識者組織「ローマクラブ」の創設者である、アウレリオ・ペッチェイ博士が、言っています。

『人類は、これまでに産業革命、科学革命、テクノロジー革命と「3つの革命(かくめい)」を経験してきました。これらは、どれも「人間の外側の革命」でした。

・・・技術(ぎじゅつ)は進歩しても、文化的には化石(かせき)のように進歩が止まっている。そのギャップを埋(う)めるために、必要なのは「人間精神のルネッサンス」です。「人間自身の革命」です。』


1975年、アウレリオ・ペッチェイ博士と池田SGI会長(創価学会インターナショナル会長)が会見(かいけん)した時、ペッチェィ博士は、言っています。

『私は、今まで、「人間性の革命」を唱(とな)え、行動してきました。しかし、それをさらに深く追求(ついきゅう)していくならば、究極(きゅうきょく)は「人間革命」に帰着(きちゃく)すると考えるようになりました。』

そして、ペッチェイ博士は、池田SGI会長に聞いている。

『人間性革命と人間革命の関係について、お聞かせください。』

池田SGI会長は、答えている。

『「人間性革命」の大前提(だいぜんてい)になるのが、人間性を形成(けいせい)する生命の変革であると思います。その生命の根源的(こんげんてき)な変革を、私たちは「人間革命」と呼んでおります。』

ペッチェイ博士は笑(え)みを浮かべて言った。

『私も今日から「人間革命」でいきます。』


創価学会の偉大(いだい)さは、ここにあると思う。

『人間革命』・・!

人間性の革命をさらに越えた『人間革命』・・・!!

それを、ペッチェイ博士のような優秀な人物でなくても、あらゆる、名もない民衆の中で、現実に可能(かのう)にしてきたのが、創価学会(そうかがっかい)だと思う。

昔は、創価学会は、貧乏人(びんぼうにん)と病人の集まりだと言われた。
ペッチェイ博士のような有識者とは、ほど遠い、あまり教養もないような無名の庶民たちだった。

その人たちが、人間革命して、貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、病人は健康になっていった。そして、それぞれが、幸せを勝ち取っていった。

それは、確かに、人間性の革命などというもので、片付(かたづ)けられるような問題ではない・・!

貧乏の悩み、病気の悩み、あるいは家庭不和(かていふわ)などの家族や環境(かんきょう)の問題・・。
それらは確かに、人間性の改革などということで解決する問題ではなかった。

もっと根(ね)が深く、根源的(こんげんてき)な問題だった。

また、それは、今までも人類史の中で、だれも手の付けようもない問題だとも言える。

そのだれも手の付けようもない悩みや問題に踏(ふ)み込(こ)み、立ち向かい、解決してきたのが、創価学会です。

だから、世界は、創価学会に注目(ちゅうもく)するんです。

人間の幸せを突(つ)き詰(つ)めれば、突き詰めるほど、この『人間革命』に突き当(あ)たるということです。

それが、『人間革命』の意義(いぎ)です。

これほど重要(じゅうよう)なことはない。
これほど素晴らしいこともない。
これほどスゴイこともない。

それが、人間革命です。

その人間革命は、一人に留(とど)まることなく、一人が幸せに変わっていくことによって、やがてそれは、家族や地域、そして世界に広がり、世界を変え、世界を幸せに、平和にすることにつながっていく・・!

それを可能にしていく究極の原理(げんり)が人間革命だと言えます。

そして、それを可能にする法則であり、力でありエネルギーが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

これしかない!と言えます。

ほんとうに人間革命していける方法は、これしかない!!!

この南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の信仰しかない。

だから、創価学会の人たちは、幸せになっていける。
悩みを解決していける。
夢や希望を、つかんでいくことができる。
そして、勝利していける。


それが、ペッチェイ博士が望み求めた、人間革命を可能にする、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰です・・・!


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