ひまわりの種344 [悩み]

この前、マンガで、「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、読みました。

アニメの方は、途中で、頓挫(とんざ)していましたが、マンガを読んだら、また、アニメも、見たくなりました。


その、マンガ・進撃の巨人の後半で、「始祖(しそ)の巨人」というのが、登場します。

始祖の巨人は、始まりの祖(そ)と書く通り、全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、巨人の先祖(せんぞ)、巨人の大元(おおもと)と考えられます。

その始祖の巨人から、進撃の巨人を含(ふく)め、超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、あらゆる巨人が誕生してきたということです。


また、「始祖の巨人」は、あらゆる巨人を、肉体的にも、行動的にも、精神的にも、意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、それゆえに、絶対的な力を有(ゆう)していると、考えられます。

だから、進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、始祖の巨人は、巨人たちを、意のままに操れるので、いちばん重要(じゅうよう)で、いちばん力があって、いちばんスゴイということになります。


ようするに、始祖の巨人は、いちばん最初であり、いちばん大元であり、巨人の力をつかさどる、源泉(げんせん)であり、根源の存在(そんざい)だということです。



始祖の巨人とは関係ありませんが、創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)の言葉に、

「久遠元初(くおんがんじょ)」

という言葉があります。

「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、宇宙と生命の根源というか、始祖の巨人のように、いちばん最初で、いちばん大元で、生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。

その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』というのですが、最も根源の法(ほう)をさとり、その力を自由自在に操(あやつ)ることのできる仏のことです。

イメージとしては、ちょっと違(ちが)いますが、始祖の巨人のようであり、生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。


その久遠元初の仏であり、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、実は、「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」なんです。

だれもが、想像(そうぞう)しそうな、釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる

「釈尊(しゃくそん)」

ではないんです。


釈尊は、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人の法(ほう)、すなわち、久遠元初の生命の法則によって、その久遠元初の法則を悟(さと)って、仏(ほとけ)になったとされます。


本来、上下関係はないと思いますが、位(くらい)としては、日蓮大聖人の方が、釈尊より偉(えら)いというイメージになります。

なぜなら、釈尊は、日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、成仏(じょうぶつ)したのだから。


たとえて言えば、進撃の巨人が、釈尊ならば、始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、思います。

進撃の巨人もスゴイですが、その進撃の巨人のさまざまな力も、始祖の巨人から授(さず)かったと、いえるからです。


だから、釈尊という仏(ほとけ)は、自受用報身如来である日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、たとえることができます。

それゆえに、釈尊の仏法では、人々の心が純粋(じゅんすい)で、擦(す)れていない時代の、比較的(ひかくてき)、仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、幸せにすることができません。

だから、現代のように、人心(じんしん)が乱(みだ)れ、悪(あ)しき思想が、はびこっているような時代の人々を幸せにする力は、釈尊の仏法には、ないんです。


釈尊が死んでから、二千年後の時代のことを、「末法(まっぽう)」といいますが、この末法の時代が、人心が乱れ、悪しき思想が、うじゃうじゃと、はびこっている時代です。


そして、現代が、その「末法(まっぽう)」の時代です。


ですから、その末法という現代の時代では、釈尊の仏法には、なんの効力(こうりょく)もなく、幸せにする力はありません。


それが、釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。


そして、その後の時代では、釈尊より、もっとスゴイ!もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、人々を幸せにすることは、できないんです。


その時代に必要となるのが、さっき言った、始祖の巨人です。

じゃなくて、イメージとしては、始祖の巨人のような存在である、根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。

すなわち、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、日蓮大聖人だということです。


ですから、現代では、すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、人々を幸せにすることはできず、より、大きな、より、根源的な力のある、日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、人々を、幸せにすることは、できない!ということです。


それは、マンガ・進撃の巨人の中で、始祖の巨人が、あらゆることを可能(かのう)にする絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、日蓮大聖人の仏法に、どんな人心が乱れた、悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、幸せにすることができる、より、大きく、より、絶対的な力がある!!ということです。


ゆえに、現代では、悩みを解決でき、夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、

『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』

しかない!ということになります。


その日蓮大聖人の生命の法則であり、宇宙(うちゅう)の法則であり、無限(むげん)の力が、創価学会の人たちが、となえている、

『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』

なんです。


南無妙法蓮華経には、始祖の巨人のように、最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、あらゆる悩み、あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!ということです。


それが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。



譬(たと)え話(ばなし)にするならば、こんな感じだと思います。


久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人が、釈尊に頼(たの)みます。

「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、ちょっと、先に行って、仏法(ぶっぽう)を、広めてきてくれないか。」

釈尊は答えます。

「はい、いいですよ。でも、私は、本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか広められませんが、それでも、いいですか?」

日蓮大聖人は、言います。

「うん!いいよ。期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!その後は、ぼくが、本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」


と、こんな感じでしょうか・・。



先程、少し、話したように、また、譬(たと)え話にもあったように、釈尊の仏法は、「期間限定」なんです。

その期間が、どれだけか?といえば、釈尊が亡(な)くなってから、二千(2000)年間です。

その二千年は、とうに過(す)ぎています。

ですから、先程(さきほど)、言ったように、釈尊の仏法には、もう、効力(こうりょく)がないんです。


何の効力かといえば、それは、人を幸せにする力です。


だから、釈尊没後(ぼつご)、二千年が経(た)った現代では、釈尊の仏法をやっても、なんの効力もないし、幸せにもなりせん。

かえって、期限が切れているので、期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、害(がい)になってしまいます。

すなわち、現代、釈尊の仏法をやったら、幸せになるどころか、不幸になってしまうということです。


それが、現代、一般的に広まっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、観光(かんこう)仏教です。


ですから、お葬式(そうしき)などで、葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、お経(きょう)を読んでもらったところで、真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、不幸にしてもらっているようなものです。



マンガ・進撃の巨人に戻ると、やはり、最(もっと)も重要なポイントは、「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。

その始祖の巨人の力を、手に入れることが、できるかどうかが、勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。

そして、その始祖の巨人は、進撃の巨人の、以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、始祖の巨人の持ち主であった王家の女性を食ったことにより、始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、所有(しょゆう)していた。

すなわち、エレンの父は、進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、自分の中に所有していたということです。

その二つの巨人の力は、エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、エレンに引き継(つ)がれた。

すなわち、エレンが、進撃の巨人の力も、始祖の巨人の力も、もっているということです。

だから、最も重要な、「始祖の巨人」は、エレンが持っている!!

ということです。


そうなると、エレンは無敵(むてき)ではないか!と考えられる。

なぜなら、巨人たちを、意のままに操(あやつ)ることができる『始祖の巨人』を、自分の中に持っているからです。


ところが、そう、うまくはいかない・・。


始祖の巨人の力を使うためには、条件(じょうけん)があり、その条件をクリアしないかぎり、始祖の巨人を持っていても、その力(ちから)を使うことができない・・。


ちょうど、どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、使い方を知らなければ、なんの役にも立たないのと同じです。


宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、いうものです。


エレンの中に、無敵であり、無限の力である、「始祖の巨人」の力はある。


けれで、その始祖の巨人の力を、使うことができない!


自分の中に、その無限の力があっても、使うことができなかったら、無(な)いのと同じです。

それが、エレンの状態(じょうたい)です。


では、その無敵の力である、始祖の巨人の力を使うには、どうしたらいいのか。

そのためには、「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、接触(せっしょく)しなければならない!!

王家の血を引く巨人が、始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、その王家の血を引く巨人と接触することによって、はじめて、鍵が開(あ)き、始祖の巨人の力を、使えるようになる。


だから、エレンは、始祖の巨人の力を使うために、王家の血を引く巨人を、求(もと)めていきます。


その「王家の血を引く巨人」が、エレンの腹違(はらちが)いの兄である、『ジーク 』です。

そこで、エレンとジークは、始祖の巨人の力を行使(こうし)する目的(もくてき)のために、なんとしても、兄弟の接触を、果(は)たそうとします。

そして、始祖の巨人の力の行使を避(さ)けようとしている、もろもろの勢力(せいりょく)と、壮絶な戦いを、繰(く)り広げるわけです。



どんなにスゴイ力(ちから)があっても、使うことができなかったら、何の意味もない。


どんなに大きな可能性があっても、その可能性を、出すことができなかったら、無いのと同じです。


人間の中にも、無限の力は、ある。

人間の中にも、無限の可能性は、ある。

エレンが、始祖の巨人の力を持っていたように、それに変(か)わるような、「幸せになる力」というものが、あると、思う。

幸せになる力があるということに抵抗(ていこう)を感じるにしても、どんな人でも、幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!と思う。

たとえば、宝くじに当たって、億万長者(おくまんちょうじゃ)になることだってある。

仮に、99%、宝(たから)くじに当たって億万長者になることはないとしても、だからといって、無(な)いとは、いえない。

当(あ)たった人は、現実にいるのだから。

ということは、

人間は、幸せになる可能性を、持っている!!

ということだと思う。

また、そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような話しでなくとも、必死に努力して、運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、幸せになる人は、山ほど、いる。


ということは、人間は、やはり、幸せになる力を、持っている!ということです。


それは、可能性を無限に広げれば、進撃の巨人の中のエレンが、始祖の巨人の力を持っているのと、同じようなことだと、思う・・。


そして、エレンと同じように、その力を、出すことができるか、できないかが、鍵(かぎ)となる。


エレンは、始祖の巨人の力を持っている。

しかし、その力を、使うことが、できない・・。


なぜか?


始祖の巨人の力を使うためには、それを使うために、『縁(えん)』が、どうしても必要となるからです。

『縁』とは、何かを起こす「きっかけ」となる対象(たいしょう)のことですが、その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、始祖の巨人という無限大の力を、使うことが、できない。

マンガ・進撃の巨人の場合、その『縁』が、王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、ジークだと、いえます。


それと同じように、人間も、幸せのなる無限の力を、持っている。

幸せになる、無限の可能性を、持(も)っている。


そして、その、幸せになる無限の力を出すためには、エレンと同じように、『縁(えん)』が、必要となってくるんです。


その『縁(えん)』とは、何なのか?


幸せの縁とは、何なのか?


その幸せの縁の中で、最も、強く、最も、大きく、究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、『幸せの縁』が、創価学会の人たちが、日々、祈(いの)っている、『ご本尊(ほんぞん)』なんです。


ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、そのまま表現して、書き表(あらわ)したものですが、その「仏の生命」が、根源的な幸せの力であり、最も大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)するエネルギーのようなものだと、思います。


人間には、幸せになる力が、ある・・!

その幸せになる力を引き出すためには、『縁(えん)』が必要となる。

その幸せを引き出す縁が、「ご本尊(ほんぞん)」だということです。


そして、もう一つ、重要なことが、あります。


幸せになる縁であるご本尊に、ただ、接(せっ)すれば、幸せの力を引き出せるかといったら、そんなことは、ありません。

それだったら、まだ、簡単(かんたん)かもしれない。

けれど、違います。

ご本尊から、幸せになる力を引き出すためには、方法(ほうほう)がある・・!

それが、ご本尊に、

南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!

ということです。

これ以外、ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、ありません。


南無妙法蓮華経とは、仏(ほとけ)の生命の名前です。

その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、そのまま、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、含(ふく)まれているということです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえた時、呼(よ)ばれて、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、出てくるわけです。


進撃の巨人でいえば、始祖の巨人の力をつかうためには、「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、それ以前に、自分が「始祖の巨人の力」を、所有(しょゆう)していなければならない。

始祖の巨人の力を所有していないものが、王家の血を引く巨人と接触しても、何も起(お)こらない。


それと同じように、自分の中に、「幸せになる無限の力」を、所有しなければならない。

その幸せになる無限の力を所有するということが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ということになるんです。


南無妙法蓮華経をとなえるということは、その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、「幸せになる無限の力」を所有することに、なっていくんです。


南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、自分の中に、幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、その瞬間、自分の中に、幸せの無限の力が、所有されるんです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえないと、いけないんです。

結論(けつろん)からいうと、本当の幸せを、つかみたいんだったら、南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、ありません。

ほかの何をやっても、無理(むり)です。


それほど、南無妙法蓮華経は、スゴイということです。


マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の中に、始祖の巨人を、所有したことになる。

進撃の巨人でいえば、南無妙法蓮華経をとなえ、始祖の巨人を所有した状態で、「王家の血を引く巨人」という『縁』、

すなわち、『ご本尊』という無限の幸せを引き出す『縁』に接することによって、自分の中から、幸せが、発現(はつげん)してくる。


そう、言えると思います・・・。



マンガ・進撃の巨人では、最終的に、エレンは、「王家の血を引く巨人」である、兄のジークとの接触を果(は)たし、始祖の巨人の力を、行使(こうし)できるようになる。

そして、エレンの目的のために、始祖の巨人の力を行使したとき、なぜだか、エレンは、少年の姿(すがた)に戻(もど)る。

そして、少年の姿に戻ったエレンは、叫(さけ)ぶ。


『自由だ!!!』


それは、人間が持っている、本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。


人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、幸せへの希望、さまざまな不幸の足かせを、取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。

エレンの姿が、少年に戻ったというのは、それが、生命(せいめい)の上で、可能になったということではないだろうか・・。


自由とは、なにものにも束縛(そくばく)されない喜(よろこ)びのようなものだろうか。

それは、生命が、舞(ま)い上がるような感動!!

おそらく、それは、生命が感じる、最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。


創価学会では、あるいは、仏法では、

『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』

だと、いう。

それは、言い方を変えれば、

『自由の中の、最大の自由!!』

ということだと思う。

南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の生命が、解(と)き放(はな)たれる。

それは、幸せの力を、自由につかえるようになる!ということではないだろうか。


マンガ・進撃の巨人にたとえれば、始祖の巨人の力を、使えるようになる。

始祖の巨人の無限の力を、行使できるようになる。

すなわち、幸せの無限の力を使って、さまざまな悩みを解決し、さまざまの夢や希望をかなえ、無限に、幸せを、つかんでいける!ということだと思う。


だから、南無妙法蓮華経は、「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。



ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、自分の中から、久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、湧(わ)き上がり、その生命の力を、使えるようになる。

そして、自分の生命は、少年や少女が、夢を、かなえるような生命状態に、変(か)わっていく。


歓喜の中の大歓喜は、そんな風(ふう)に、譬(たと)えられるかもしれない。


そして、その生命状態は、エレンが、始祖の巨人の力を、行使できるようになったのに似(に)ている。

なぜなら、その大歓喜の生命状態には、困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、強い強い生命力があるので、さながら、それは、無敵のように思えるからです。


だから、負けない!

だから、勝っていける!!

悩みを解決し、希望を、叶(かな)えていける。


そして、自分らしい、素晴(すば)らしい、最高の幸せを、つかんでいける。


それが、

「ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる!」

ということかもしれない。


あたかも、それは・・、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、始祖の巨人の力を行使した時、少年の姿(すがた)に、戻り、

『自由だ!!!』

と、叫んだように・・。


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ひまわりの種343 [幸せ]

先日、ディズニーのアニメ映画、「シュガー・ラッシュ」の話しをしました。

この物語では、ゲームの世界の『お菓子(かし)の国』で、少女たちが、カーレースで、勝敗を競(きそ)っている。

ゲームセンターのカーレースのゲームを、擬人化(ぎじんか)したような設定(せってい)です。

そして、ヒロインのヴァネロペは、カーレースに出たくても、出ることができない、不具合(ふぐあい)をもった存在として、生きている。

いわゆる、コンピューターの中の『バグ』というやつで、ヴァネロペがカーレースに出場すれば、ゲームに不具合が発生(はっせい)し、ゲーム自体が壊(こわ)れてしまう・・。

そうなれば、ゲームの世界の『お菓子の国』は、崩壊(ほうかい)し、みんなが生きていけなくなる。

ヴァネロペ自身も、自分が『バグ』であるために、お菓子の国から逃(に)げることもできず、死んでいくしかなくなる。

ゆえに、どうしても、ヴァネロペをカーレースに出場させることはできない!!


これが、お菓子の国の王たちが、ヴァネロペをカーレースに出場させず、ヴァネロペを排除(はいじょ)して、いじめ、蔑(さげす)み続ける理由です。


けれど、そこには、トリックがある・・!


そのトリックに、他のゲームの世界から迷(まよ)いこみ、やってきたラルフは、気付(きづ)く・・・!


そして、ラルフの助けを得(え)て、ヴァネロペは、カーレースに出場する。

やがて、お菓子の国の王の正体(しょうたい)も、暴(あば)かれ、お菓子の国の王は、実(じつ)は、その国を乗(の)っ取った、悪(あ)しき「ウイルス」であったことがわかる。

ラルフとヴァネロペは、そのお菓子の国を乗っ取(と)った、悪のウイルスを倒(たお)し、ヴァネロペは、カーレースで勝利して、ゴールする。


その瞬間(しゅんかん)、悪のウイルスに支配(しはい)されていた呪縛(じゅばく)が解(と)け、お菓子の世界は、劇的に、美しく、平和な世界に変わる。


ヴァネロペ自身も、劇的に変化して、素晴らしい女王の姿(すがた)を現(あらわ)す。



ふと、考えるに、ヴァネロペは、自分が、このお菓子の世界で、不具合(ふぐあい)、すなわち、「バグ」として生き、みんなから蔑(さげす)まれ、のけ者にされて生きることもできた。


けれど、ヴァネロペは、それを選(えら)ばなかった!!


すなわち、幸せになることを、選んだ・・!!


ゆえに、レースに出場して、偽(いつわ)りの王(おう)の正体が、暴かれ、ヴァネロペはゴールして、勝利した。


これが、もし、ヴァネロペが、自分が「バグ」であることに甘(あま)んじ、諦(あきら)めて、レースに出なかったら、どうなったであろうか。

状況(じょうきょう)は、何も変わらず、ヴァネロペは、蔑(さげす)まれ、不幸のまま、死んでいったであろう・・。


不幸というのは不思議(ふしぎ)で、そういう不幸に慣(な)らされてしまうと、一歩、踏(ふ)み出すのにも勇気がいるし、新しい環境や世界に行くのが、おっくうだから、自分自身で、自分を、だましてしまう場合さえ、ある・・。


けれど、それは、ディズニー映画「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、お菓子の国の「偽りの王」、「悪のウイルス」に、だまされているのと同じで、自分の中の悪(あく)のウイルスが、自分の「本当(ほんとう)の姿」、すなわち「幸せ」を、出させないようにしているのかもしれない。


だまされる、もっともな何かの理由は、ある思う。


けれど、だまされていたら・・、ドラマもストーリーも、始まらない。


まして、幸せが生まれることはない。


だから、だまされてはいけない。


幸せになるか、ならないかを決めるのは自分自身なのだから!!



仮(かり)に、自分が、不遇(ふぐう)であり不幸であったとする。

そうであったならば、環境や、周(まわ)りの状況、周りの人たちの見方や考え方に、甘んじている必要は、ないと思う。


試(ため)しに、映画・シュガー・ラッシュのように、その環境をつかさどる、国や世界、王のほうが、偽りの、悪しきウイルスであり、間違っていると、自分の環境や状況を、ゲームのような感覚(かんかく)で想像(そうぞう)してみたら、何かの新しい視点(してん)が、見えてくるかもしれない・・。

自分が、ヴァネロペのような立場(たちば)だと、想像してみたら、ひとつの考えに囚(とら)われていた心が、いったん、解放されて、精神的(せいしんてき)に、楽(らく)になるかもしれない。

さらに、それを、きっかけにして、良い方向(ほうこう)に、前進することができたなら、なおのこと、幸せではないのだろうか・・。


ただ・・、人が持っている「宿命(しゅくめい)」というものは、生(なま)やさしいものでは、ない・・。


持って生まれた運命や境遇(きょうぐう)、そこから引(ひ)き起こる、さまざまな悲しみ、苦しみ、どうして自分だけがと思うような、辛(つら)い出来事、災難(さいなん)、

そのような、どうしても避(さ)けることのできない宿命のようなものを、仏法(ぶっぽう)では、『宿業(しゅくごう)』という。

それは、自分の中に宿(やど)ってしまっている『業(ごう)』であり、この「宿業」があるから、人は苦しみ、悲しみ、幸せになれないまま、不幸を背負(せお)って、生きていると言えると思います。


そして、この『宿業(しゅくごう)』ほど、やっかいなものは、ない・・!


この宿業だけは、そんじょそこらのことでは、打ち破(やぶ)ることが、できないからです。

それこそ、岩を切(き)るような思いがするかもしれない。


そして、その宿業を打ち破る、唯一(ゆいいつ)の利剣(りけん)が、創価学会(そうかがっかい)の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』であり、『ご本尊(ほんぞん)』だと、言えます。

この『宿業』だけは、創価学会の人たちが、となえている、『南無妙法蓮華経』と『ご本尊』でないと、断(た)ち切ることは、できません。

横暴(おうぼう)なように聞こえますが、本当にそうだから、しょうがありません。

他のなにをやっても、だめです。


※ちなみに、「ご本尊」とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、目に見える形に、書き表(あらわ)したものであり、同時に、自分の生命そのものを、表現したものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。



人気のマンガ、『鬼滅の刃(きめつのやいば)』の中で、主人公の炭治郎(たんじろう)が、修行中、岩を切るシーンがあります。

師匠(ししょう)の言いつけで、「岩を切れ!」というのです。

岩(いわ)を切れと言われても、炭治郎は、とても、岩が、刀(かたな)で切れるとは、思わない。

あたりまえです。

そして、炭治郎が、岩を切るために、さまざまな苦心(くしん)で努力をしている時に、炭治郎の前に、少年の剣士(けんし)が、あらわれる。

その少年の剣士は、炭治郎に襲(おそ)いかかり、それ以来、二人で、剣の修行を重(かさ)ねる。

しかし、その少年の剣士は、とても強く、炭治郎は、歯(は)がたたない。

実は、その少年の剣士は、鬼(おに)に殺された剣士の幽霊(ゆうれい)であった。

また、同じ時期、鬼に殺された少女の剣士の幽霊も、登場して、炭治郎に、さまざまな「知恵」を、さずける。

炭治郎は、最後まで、二人の剣士が、幽霊であることには、気づかなかったが、二人のおかげで、成長していく。

やがて、まったく歯が立たなかった少年剣士と、互角(ごかく)に、戦えるようになっていき、鬼(おに)と戦うための糸口(いとぐち)も、つかんでいく。

そして、炭治郎が、初めて少年剣士に勝ったとき、少年剣士は、にっこり笑って、消えていく。


そのとき、なぜだか、岩が、切れていた。


漫画(まんが)だから、なにか、すごい力(ちから)で、岩が切れたように描(えが)いてもよいのだけれど、そうは描かないで、ふたりの子供剣士の幽霊と修行(しゅぎょう)する中で、成長し、岩が切れたというのは、とても素晴(すば)らしい表現(ひょうげん)だと、思った。


思うに、岩と、炭治郎だけだったら、客観的(きゃっかんてき)にも、岩が、切れるようには思えない。

けれど、そこに、二人の子供剣士の幽霊が、加(くわ)わることによって、何かが生まれ、人間の中にありながら、人間の意識を超(こ)えた『何か』の働きによって、岩を切ることができた。


そういう表現だと、思う。


人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』?

人間の中に、あることはわかる。けれど、それを出すことは、考えもしない。

たとえば、思いもしない力(ちから)、思いもしない可能性、思いもしない希望、思いもしない才能(さいのう)、思いも及(およ)ばない知恵、


そして、思いもよらない幸せ・・!!


それが、何であるのか、わからなくても、それを出すことのできる武器(ぶき)が、実は、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)であり、ご本尊(ほんぞん)だと、たとえることが、できます。



前の、「宿業(しゅくごう)」の話しに戻(もど)ると、宿業を断ち切ることのできる、マンガ・鬼滅の刃でいえば、岩を切ることができる、その、人間の中にありながら、人間の意識を超えた『何か』が、「南無妙法蓮華経」であり、「ご本尊」であると言えば、わかりやすいかもしれない。

また、宿業を断ち切るためには、「南無妙法蓮華経」と「ご本尊」が、鬼滅の刃の、二人の幽霊剣士のような役目(やくめ)を果(は)たしていると表現すれば、納得(なっとく)しやすいかもしれない。



仏法(ぶっぽう)では、『妙法(みょうほう)の利剣(りけん)』という言葉を、使う。

「妙法」とは、「南無妙法蓮華経」を略(りゃく)したもので、妙法と南無妙法蓮華経は、同じです。

そして、「妙法の利剣」でないと、「宿業(しゅくごう)」という岩は、切ることができない。

それは、鬼滅の刃の中で、日輪刀(にちりんとう)という、年中日光を浴びている特殊な鋼(はがね)で作られた刀(かたな)でないと、鬼を倒(たお)すことができないのと、同じです。

普通の刀(かたな)で、鬼を、どんなに切っても、首(くび)を切っても、鬼は死なない。

日輪刀で、鬼の首を切ったときだけ、鬼(おに)は死ぬ。

それと同じように、「宿業」を「鬼」にたとえるならば、宿業という鬼は、「妙法の利剣」でないと、死なない。


宿業は、妙法の利剣、すなわち、「南無妙法蓮華経」でないと、断ち切ることができない!ということです。


やがて、妙法の利剣である「南無妙法蓮華経」で、宿業(しゅくごう)を断ち切ることができたならば、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、悪のウイルスの王を打ち破ったように、自分の世界が、不幸から、幸せの世界に、変わっていく。


悩みが、解決していく。夢や希望が、かなっていく!!ということです。


それが、創価学会が実践(じっせん)している、ご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、言えると思います。


それは、あたかも、マンガ・鬼滅の刃の中で、炭治郎が、岩を、切ったように・・・!!


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