ひまわりの種316 [世界]

聖教(せいきょう)新聞に、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁(そうさい)の話しが、のっていました。

その一部分を抜粋(ばっすい)したいと思います。

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「言論(げんろん)の獅子(しし)」がそこにいた。
顔に刻(きざ)まれた深いしわ。白く伸びた髪(かみ)。何より、小さい体から発散(はっさん)される威厳(いげん)は、地走る者の王・ライオンを 思わせた。

1993年の2月9日。時間は午後9時。ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁は、貴賓室(きひんしつ)で、2時間も前から待っている。

リオデジャネイロのガレオン国際空港。池田SGI(創価学会インタナショナル)会長が、27年ぶりに、このブラジルの古都(こと)に降(お)り立とうとしていた。

総裁(そうさい)は94歳。頭脳(ずのう)は明晰(めいせき)だが、さすがに足腰(あしこし)は衰(おとろ)え、ふだんは歩くのに、2人に両脇(りょうわき)を抱(かか)えてもらうことも、たびたびであった。ソファに座(すわ)る総裁に、体調を心配(しんぱい)した周囲(しゅうい)は、別室で休んではどうかと進めた。

だが、総裁は言った。

「私は、94年間も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は何ともありません。」

SGI会長を乗せた旅客機(りょかっき)が着いた。総裁はソファから身を起(お)こし、ドアのほうへ、一人で足を運(はこ)んだ。

扉(とびら)が開いた。池田SGI会長が両手を大きく広げて歩(あゆ)み寄(よ)り、総裁の両腕(うで)を下から支(ささ)えた。

「『世界の宝(たから)の人』です。私が総裁のことを、世界に永遠(えいえん)に残します!」

総裁は応(こた)えた。

「会いたい人にやっと会えました。池田会長は、この世紀(せいき)を決定づけた人です。戦いましょう。2人で力を合わせ、人類の歴史を変えましょう!」

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ぼくが思うに、映画やドラマ、小説の世界ではなく、現実の生身(なまみ)の人間が、こういう会話をかわしていること自体(じたい)、スゴイことだと思いました。


アタイデ総裁は、1930、40年代、独裁(どくさい)を真っ向(まっこう)から批判(ひはん)し、3度の投獄(とうごく)、3年間の国外追放(ついほう)に耐(た)えた人物である。70年間以上、ペンを振(ふ)るい、発表したコラムは5万本。テレビに20年、ラジオには30年にわたって毎週出演し、人権擁護(じんけんようご)の『声の弾丸(だんがん)』を放(はな)ち続けた。

その名前は『強靭(きょうじん)なリベラリスト(自由主義者)』として、ブラジルにおいては伝統的な響(ひび)きを持っているそうです。

そのアタイデ総裁が1959年から30年以上にわたって率(ひき)いてきたのが、南米最高の知性の殿堂(でんどう)、ブラジル文学アカデミーです。

在外会員は、トルストイ、エミール・ゾラ、アンドレ・マルローらの名が連なる。

そして、アタイデ総裁が34年間で初めて推薦(すいせん)したのが、池田SGI(創価学会インタナショナル)会長です。

アタイデ総裁は、言っている。

「私には池田会長の偉大(いだい)さがわかる。」

「民衆のために戦い、苦しみ抜(ぬ)いた者にしか、彼と、彼を支(ささ)える香峯子婦人(池田会長婦人)の心は分からない。」

「迫害(はくがい)を受けた者だけが、池田会長の価値(かち)を知るのだ。」

さらに、アタイデ総裁は言う。

「一人の指導者が道を開けば、皆がその後を従(したが)うものです。」
「未来はひとりでに、やってくるものではありません。人間自身が切り開くものです。その人間の一人が、池田大作氏です。」

アタイデ総裁と池田SGI総裁の2人は、対談集の発刊(はっかん)を目指して、口述筆記(こうじゅつひっき)などを通して、対話を続けることで合意(ごうい)した。

だが、総裁の体調(たいちょう)は思わしくなかった。
総裁の秘書は、率直(そっちょく)に「口述筆記も、タイプライターで原稿(げんこう)を打つことも無理(むり)でしょう。最近は笑(え)みを見せることもないのです」と話した。

93年6月、SGIのスタッフから、「回復するまで、いつまでかかってもお待ちします」との池田SGI会長の伝言が、総裁に伝えられた。

じっと聞いていた総裁が、ほほ笑(え)んだ。

「ありがとうございます。私にはもう時間がありません。すぐに始めましょう。
しゃべって、しゃべって、しゃべり抜きます。人類の未来のため、21世紀のために語り継(つ)ぎましょう!」

口述はそれから、毎週土曜日、リオの総裁の自宅で行われた。SGI会長の書簡(しょかん)での質問に、総裁は毎回2時間、思索(しさく)を重ねながら、身じろぎもせず語り続けた。

SGI会長からは毎回、花束(はなたば)が届けられ、総裁はいつもそれを、応接間(おうせつま)の純銀(じゅんぎん)の花瓶(かびん)に飾(かざ)って、眺めるのだった。

最後の「対談」は8月21日。テーマは「人権の闘士・マンデラに学ぶ」であった。

その6日後に、総裁は入院した。

「私には、やらなければならない大事な仕事がある。早くここを出してください。私は、池田会長との対談を続けなければならないのだ。」

医師や看護士にそう何度も訴(うった)えた。

総裁が逝去(せいきょ)したのは93年9月13日。SGI会長は悲報(ひほう)を聞き、すぐさま弔電(ちょうでん)を送った。

10月には文学アカデミーの強い要請(ようせい)により、2人の出会いを描いた油彩画(ゆさいが)「アタイデ総裁」が同アカデミーに贈られている。

さらに息女(そくじょ)のラウラさんと夫のシィッセロ・サンドローニさん、子息(しそく)のロベルト・アタイデさんを、池田SGI会長は翌年8月、長野研修道場で歓迎(かんげい)した。

「父が毎日、使っていたペンです。父の名前が刻(きざ)まれています。」

席上、ラウルさんから、総裁の「武器」であった金色のボールペンが、池田SGI会長に渡された。友情は、家族と、アカデミーの後継者(こうけいしゃ)たちに受け継(つ)がれたのである。

対談集「21世紀の人権を語る」は95年に日本語版、2000年にポルトガル語版が発刊(はっかん)。

未来を見通(みとお)した総裁の『遺言(ゆいごん』で、語らいは結(むす)ばれた。

『池田会長の存在(そんざい)は、人類の歴史に残り、その運動は時代とともに広がりゆくことでしょう。

そして21世紀は、新たなヒューマニズムが実現された時代として、人類の歴史に深く刻(きざ)まれることになるでしょう。』


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