ひまわりの種344 [悩み]
この前、マンガで、「進撃(しんげき)の巨人(きょじん)」を、読みました。
アニメの方は、途中で、頓挫(とんざ)していましたが、マンガを読んだら、また、アニメも、見たくなりました。
その、マンガ・進撃の巨人の後半で、「始祖(しそ)の巨人」というのが、登場します。
始祖の巨人は、始まりの祖(そ)と書く通り、全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、巨人の先祖(せんぞ)、巨人の大元(おおもと)と考えられます。
その始祖の巨人から、進撃の巨人を含(ふく)め、超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、あらゆる巨人が誕生してきたということです。
また、「始祖の巨人」は、あらゆる巨人を、肉体的にも、行動的にも、精神的にも、意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、それゆえに、絶対的な力を有(ゆう)していると、考えられます。
だから、進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、始祖の巨人は、巨人たちを、意のままに操れるので、いちばん重要(じゅうよう)で、いちばん力があって、いちばんスゴイということになります。
ようするに、始祖の巨人は、いちばん最初であり、いちばん大元であり、巨人の力をつかさどる、源泉(げんせん)であり、根源の存在(そんざい)だということです。
始祖の巨人とは関係ありませんが、創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)の言葉に、
「久遠元初(くおんがんじょ)」
という言葉があります。
「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、宇宙と生命の根源というか、始祖の巨人のように、いちばん最初で、いちばん大元で、生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。
その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』というのですが、最も根源の法(ほう)をさとり、その力を自由自在に操(あやつ)ることのできる仏のことです。
イメージとしては、ちょっと違(ちが)いますが、始祖の巨人のようであり、生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。
その久遠元初の仏であり、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、実は、「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」なんです。
だれもが、想像(そうぞう)しそうな、釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる
「釈尊(しゃくそん)」
ではないんです。
釈尊は、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人の法(ほう)、すなわち、久遠元初の生命の法則によって、その久遠元初の法則を悟(さと)って、仏(ほとけ)になったとされます。
本来、上下関係はないと思いますが、位(くらい)としては、日蓮大聖人の方が、釈尊より偉(えら)いというイメージになります。
なぜなら、釈尊は、日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、成仏(じょうぶつ)したのだから。
たとえて言えば、進撃の巨人が、釈尊ならば、始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、思います。
進撃の巨人もスゴイですが、その進撃の巨人のさまざまな力も、始祖の巨人から授(さず)かったと、いえるからです。
だから、釈尊という仏(ほとけ)は、自受用報身如来である日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、たとえることができます。
それゆえに、釈尊の仏法では、人々の心が純粋(じゅんすい)で、擦(す)れていない時代の、比較的(ひかくてき)、仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、幸せにすることができません。
だから、現代のように、人心(じんしん)が乱(みだ)れ、悪(あ)しき思想が、はびこっているような時代の人々を幸せにする力は、釈尊の仏法には、ないんです。
釈尊が死んでから、二千年後の時代のことを、「末法(まっぽう)」といいますが、この末法の時代が、人心が乱れ、悪しき思想が、うじゃうじゃと、はびこっている時代です。
そして、現代が、その「末法(まっぽう)」の時代です。
ですから、その末法という現代の時代では、釈尊の仏法には、なんの効力(こうりょく)もなく、幸せにする力はありません。
それが、釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。
そして、その後の時代では、釈尊より、もっとスゴイ!もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、人々を幸せにすることは、できないんです。
その時代に必要となるのが、さっき言った、始祖の巨人です。
じゃなくて、イメージとしては、始祖の巨人のような存在である、根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。
すなわち、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、日蓮大聖人だということです。
ですから、現代では、すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、人々を幸せにすることはできず、より、大きな、より、根源的な力のある、日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、人々を、幸せにすることは、できない!ということです。
それは、マンガ・進撃の巨人の中で、始祖の巨人が、あらゆることを可能(かのう)にする絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、日蓮大聖人の仏法に、どんな人心が乱れた、悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、幸せにすることができる、より、大きく、より、絶対的な力がある!!ということです。
ゆえに、現代では、悩みを解決でき、夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、
『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』
しかない!ということになります。
その日蓮大聖人の生命の法則であり、宇宙(うちゅう)の法則であり、無限(むげん)の力が、創価学会の人たちが、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。
南無妙法蓮華経には、始祖の巨人のように、最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、あらゆる悩み、あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!ということです。
それが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。
譬(たと)え話(ばなし)にするならば、こんな感じだと思います。
久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人が、釈尊に頼(たの)みます。
「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、ちょっと、先に行って、仏法(ぶっぽう)を、広めてきてくれないか。」
釈尊は答えます。
「はい、いいですよ。でも、私は、本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか広められませんが、それでも、いいですか?」
日蓮大聖人は、言います。
「うん!いいよ。期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!その後は、ぼくが、本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」
と、こんな感じでしょうか・・。
先程、少し、話したように、また、譬(たと)え話にもあったように、釈尊の仏法は、「期間限定」なんです。
その期間が、どれだけか?といえば、釈尊が亡(な)くなってから、二千(2000)年間です。
その二千年は、とうに過(す)ぎています。
ですから、先程(さきほど)、言ったように、釈尊の仏法には、もう、効力(こうりょく)がないんです。
何の効力かといえば、それは、人を幸せにする力です。
だから、釈尊没後(ぼつご)、二千年が経(た)った現代では、釈尊の仏法をやっても、なんの効力もないし、幸せにもなりせん。
かえって、期限が切れているので、期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、害(がい)になってしまいます。
すなわち、現代、釈尊の仏法をやったら、幸せになるどころか、不幸になってしまうということです。
それが、現代、一般的に広まっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、観光(かんこう)仏教です。
ですから、お葬式(そうしき)などで、葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、お経(きょう)を読んでもらったところで、真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、不幸にしてもらっているようなものです。
マンガ・進撃の巨人に戻ると、やはり、最(もっと)も重要なポイントは、「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。
その始祖の巨人の力を、手に入れることが、できるかどうかが、勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。
そして、その始祖の巨人は、進撃の巨人の、以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、始祖の巨人の持ち主であった王家の女性を食ったことにより、始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、所有(しょゆう)していた。
すなわち、エレンの父は、進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、自分の中に所有していたということです。
その二つの巨人の力は、エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、エレンに引き継(つ)がれた。
すなわち、エレンが、進撃の巨人の力も、始祖の巨人の力も、もっているということです。
だから、最も重要な、「始祖の巨人」は、エレンが持っている!!
ということです。
そうなると、エレンは無敵(むてき)ではないか!と考えられる。
なぜなら、巨人たちを、意のままに操(あやつ)ることができる『始祖の巨人』を、自分の中に持っているからです。
ところが、そう、うまくはいかない・・。
始祖の巨人の力を使うためには、条件(じょうけん)があり、その条件をクリアしないかぎり、始祖の巨人を持っていても、その力(ちから)を使うことができない・・。
ちょうど、どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、使い方を知らなければ、なんの役にも立たないのと同じです。
宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、いうものです。
エレンの中に、無敵であり、無限の力である、「始祖の巨人」の力はある。
けれで、その始祖の巨人の力を、使うことができない!
自分の中に、その無限の力があっても、使うことができなかったら、無(な)いのと同じです。
それが、エレンの状態(じょうたい)です。
では、その無敵の力である、始祖の巨人の力を使うには、どうしたらいいのか。
そのためには、「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、接触(せっしょく)しなければならない!!
王家の血を引く巨人が、始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、その王家の血を引く巨人と接触することによって、はじめて、鍵が開(あ)き、始祖の巨人の力を、使えるようになる。
だから、エレンは、始祖の巨人の力を使うために、王家の血を引く巨人を、求(もと)めていきます。
その「王家の血を引く巨人」が、エレンの腹違(はらちが)いの兄である、『ジーク 』です。
そこで、エレンとジークは、始祖の巨人の力を行使(こうし)する目的(もくてき)のために、なんとしても、兄弟の接触を、果(は)たそうとします。
そして、始祖の巨人の力の行使を避(さ)けようとしている、もろもろの勢力(せいりょく)と、壮絶な戦いを、繰(く)り広げるわけです。
どんなにスゴイ力(ちから)があっても、使うことができなかったら、何の意味もない。
どんなに大きな可能性があっても、その可能性を、出すことができなかったら、無いのと同じです。
人間の中にも、無限の力は、ある。
人間の中にも、無限の可能性は、ある。
エレンが、始祖の巨人の力を持っていたように、それに変(か)わるような、「幸せになる力」というものが、あると、思う。
幸せになる力があるということに抵抗(ていこう)を感じるにしても、どんな人でも、幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!と思う。
たとえば、宝くじに当たって、億万長者(おくまんちょうじゃ)になることだってある。
仮に、99%、宝(たから)くじに当たって億万長者になることはないとしても、だからといって、無(な)いとは、いえない。
当(あ)たった人は、現実にいるのだから。
ということは、
人間は、幸せになる可能性を、持っている!!
ということだと思う。
また、そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような話しでなくとも、必死に努力して、運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、幸せになる人は、山ほど、いる。
ということは、人間は、やはり、幸せになる力を、持っている!ということです。
それは、可能性を無限に広げれば、進撃の巨人の中のエレンが、始祖の巨人の力を持っているのと、同じようなことだと、思う・・。
そして、エレンと同じように、その力を、出すことができるか、できないかが、鍵(かぎ)となる。
エレンは、始祖の巨人の力を持っている。
しかし、その力を、使うことが、できない・・。
なぜか?
始祖の巨人の力を使うためには、それを使うために、『縁(えん)』が、どうしても必要となるからです。
『縁』とは、何かを起こす「きっかけ」となる対象(たいしょう)のことですが、その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、始祖の巨人という無限大の力を、使うことが、できない。
マンガ・進撃の巨人の場合、その『縁』が、王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、ジークだと、いえます。
それと同じように、人間も、幸せのなる無限の力を、持っている。
幸せになる、無限の可能性を、持(も)っている。
そして、その、幸せになる無限の力を出すためには、エレンと同じように、『縁(えん)』が、必要となってくるんです。
その『縁(えん)』とは、何なのか?
幸せの縁とは、何なのか?
その幸せの縁の中で、最も、強く、最も、大きく、究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、『幸せの縁』が、創価学会の人たちが、日々、祈(いの)っている、『ご本尊(ほんぞん)』なんです。
ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、そのまま表現して、書き表(あらわ)したものですが、その「仏の生命」が、根源的な幸せの力であり、最も大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)するエネルギーのようなものだと、思います。
人間には、幸せになる力が、ある・・!
その幸せになる力を引き出すためには、『縁(えん)』が必要となる。
その幸せを引き出す縁が、「ご本尊(ほんぞん)」だということです。
そして、もう一つ、重要なことが、あります。
幸せになる縁であるご本尊に、ただ、接(せっ)すれば、幸せの力を引き出せるかといったら、そんなことは、ありません。
それだったら、まだ、簡単(かんたん)かもしれない。
けれど、違います。
ご本尊から、幸せになる力を引き出すためには、方法(ほうほう)がある・・!
それが、ご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!
ということです。
これ以外、ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、ありません。
南無妙法蓮華経とは、仏(ほとけ)の生命の名前です。
その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、そのまま、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、含(ふく)まれているということです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえた時、呼(よ)ばれて、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、出てくるわけです。
進撃の巨人でいえば、始祖の巨人の力をつかうためには、「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、それ以前に、自分が「始祖の巨人の力」を、所有(しょゆう)していなければならない。
始祖の巨人の力を所有していないものが、王家の血を引く巨人と接触しても、何も起(お)こらない。
それと同じように、自分の中に、「幸せになる無限の力」を、所有しなければならない。
その幸せになる無限の力を所有するということが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ということになるんです。
南無妙法蓮華経をとなえるということは、その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、「幸せになる無限の力」を所有することに、なっていくんです。
南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、自分の中に、幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、その瞬間、自分の中に、幸せの無限の力が、所有されるんです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえないと、いけないんです。
結論(けつろん)からいうと、本当の幸せを、つかみたいんだったら、南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、ありません。
ほかの何をやっても、無理(むり)です。
それほど、南無妙法蓮華経は、スゴイということです。
マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の中に、始祖の巨人を、所有したことになる。
進撃の巨人でいえば、南無妙法蓮華経をとなえ、始祖の巨人を所有した状態で、「王家の血を引く巨人」という『縁』、
すなわち、『ご本尊』という無限の幸せを引き出す『縁』に接することによって、自分の中から、幸せが、発現(はつげん)してくる。
そう、言えると思います・・・。
マンガ・進撃の巨人では、最終的に、エレンは、「王家の血を引く巨人」である、兄のジークとの接触を果(は)たし、始祖の巨人の力を、行使(こうし)できるようになる。
そして、エレンの目的のために、始祖の巨人の力を行使したとき、なぜだか、エレンは、少年の姿(すがた)に戻(もど)る。
そして、少年の姿に戻ったエレンは、叫(さけ)ぶ。
『自由だ!!!』
それは、人間が持っている、本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。
人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、幸せへの希望、さまざまな不幸の足かせを、取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。
エレンの姿が、少年に戻ったというのは、それが、生命(せいめい)の上で、可能になったということではないだろうか・・。
自由とは、なにものにも束縛(そくばく)されない喜(よろこ)びのようなものだろうか。
それは、生命が、舞(ま)い上がるような感動!!
おそらく、それは、生命が感じる、最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。
創価学会では、あるいは、仏法では、
『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』
だと、いう。
それは、言い方を変えれば、
『自由の中の、最大の自由!!』
ということだと思う。
南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の生命が、解(と)き放(はな)たれる。
それは、幸せの力を、自由につかえるようになる!ということではないだろうか。
マンガ・進撃の巨人にたとえれば、始祖の巨人の力を、使えるようになる。
始祖の巨人の無限の力を、行使できるようになる。
すなわち、幸せの無限の力を使って、さまざまな悩みを解決し、さまざまの夢や希望をかなえ、無限に、幸せを、つかんでいける!ということだと思う。
だから、南無妙法蓮華経は、「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、自分の中から、久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、湧(わ)き上がり、その生命の力を、使えるようになる。
そして、自分の生命は、少年や少女が、夢を、かなえるような生命状態に、変(か)わっていく。
歓喜の中の大歓喜は、そんな風(ふう)に、譬(たと)えられるかもしれない。
そして、その生命状態は、エレンが、始祖の巨人の力を、行使できるようになったのに似(に)ている。
なぜなら、その大歓喜の生命状態には、困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、強い強い生命力があるので、さながら、それは、無敵のように思えるからです。
だから、負けない!
だから、勝っていける!!
悩みを解決し、希望を、叶(かな)えていける。
そして、自分らしい、素晴(すば)らしい、最高の幸せを、つかんでいける。
それが、
「ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる!」
ということかもしれない。
あたかも、それは・・、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、始祖の巨人の力を行使した時、少年の姿(すがた)に、戻り、
『自由だ!!!』
と、叫んだように・・。
アニメの方は、途中で、頓挫(とんざ)していましたが、マンガを読んだら、また、アニメも、見たくなりました。
その、マンガ・進撃の巨人の後半で、「始祖(しそ)の巨人」というのが、登場します。
始祖の巨人は、始まりの祖(そ)と書く通り、全ての巨人のなかで最初に生まれた巨人、巨人の先祖(せんぞ)、巨人の大元(おおもと)と考えられます。
その始祖の巨人から、進撃の巨人を含(ふく)め、超大型(ちょうおおがた)巨人、鎧(よろい)の巨人、女型(めがた)の巨人、獣(けもの)の巨人など、あらゆる巨人が誕生してきたということです。
また、「始祖の巨人」は、あらゆる巨人を、肉体的にも、行動的にも、精神的にも、意(い)のままに操(あやつ)ることができるとされ、それゆえに、絶対的な力を有(ゆう)していると、考えられます。
だから、進撃の巨人や他の巨人も、すごいですが、始祖の巨人は、巨人たちを、意のままに操れるので、いちばん重要(じゅうよう)で、いちばん力があって、いちばんスゴイということになります。
ようするに、始祖の巨人は、いちばん最初であり、いちばん大元であり、巨人の力をつかさどる、源泉(げんせん)であり、根源の存在(そんざい)だということです。
始祖の巨人とは関係ありませんが、創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)の言葉に、
「久遠元初(くおんがんじょ)」
という言葉があります。
「久遠元初の仏(ほとけ)」とか、「久遠元初の生命(せいめい)」とかの使い方をするのですが、宇宙と生命の根源というか、始祖の巨人のように、いちばん最初で、いちばん大元で、生命の力の根源(こんげん)のようなものだと思います。
その久遠元初の仏(ほとけ)の名前を、
久遠元初の『自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)』というのですが、最も根源の法(ほう)をさとり、その力を自由自在に操(あやつ)ることのできる仏のことです。
イメージとしては、ちょっと違(ちが)いますが、始祖の巨人のようであり、生命の次元(じげん)の王様のような存在だと思います。
その久遠元初の仏であり、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)が、実は、「日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)」なんです。
だれもが、想像(そうぞう)しそうな、釈迦(しゃか)とかブッダとか呼ばれる
「釈尊(しゃくそん)」
ではないんです。
釈尊は、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人の法(ほう)、すなわち、久遠元初の生命の法則によって、その久遠元初の法則を悟(さと)って、仏(ほとけ)になったとされます。
本来、上下関係はないと思いますが、位(くらい)としては、日蓮大聖人の方が、釈尊より偉(えら)いというイメージになります。
なぜなら、釈尊は、日蓮大聖人の久遠元初の法(ほう)によって、成仏(じょうぶつ)したのだから。
たとえて言えば、進撃の巨人が、釈尊ならば、始祖の巨人が、日蓮大聖人にあたると、思います。
進撃の巨人もスゴイですが、その進撃の巨人のさまざまな力も、始祖の巨人から授(さず)かったと、いえるからです。
だから、釈尊という仏(ほとけ)は、自受用報身如来である日蓮大聖人ほどは、
大きな力がないと、たとえることができます。
それゆえに、釈尊の仏法では、人々の心が純粋(じゅんすい)で、擦(す)れていない時代の、比較的(ひかくてき)、仏法を広めるのが安易(あんい)な時代の人々しか、幸せにすることができません。
だから、現代のように、人心(じんしん)が乱(みだ)れ、悪(あ)しき思想が、はびこっているような時代の人々を幸せにする力は、釈尊の仏法には、ないんです。
釈尊が死んでから、二千年後の時代のことを、「末法(まっぽう)」といいますが、この末法の時代が、人心が乱れ、悪しき思想が、うじゃうじゃと、はびこっている時代です。
そして、現代が、その「末法(まっぽう)」の時代です。
ですから、その末法という現代の時代では、釈尊の仏法には、なんの効力(こうりょく)もなく、幸せにする力はありません。
それが、釈尊の仏法(ぶっぽう)の限界(げんかい)といえます。
そして、その後の時代では、釈尊より、もっとスゴイ!もっと根源的な力(ちから)を持った仏!でないと、人々を幸せにすることは、できないんです。
その時代に必要となるのが、さっき言った、始祖の巨人です。
じゃなくて、イメージとしては、始祖の巨人のような存在である、根源的な生命の力を有した仏(ほとけ)。
すなわち、自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である、日蓮大聖人だということです。
ですから、現代では、すでに力(ちから)をなくした釈尊の仏法では、人々を幸せにすることはできず、より、大きな、より、根源的な力のある、日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)でないと、人々を、幸せにすることは、できない!ということです。
それは、マンガ・進撃の巨人の中で、始祖の巨人が、あらゆることを可能(かのう)にする絶対的(ぜったいてき)な力を有しているように、日蓮大聖人の仏法に、どんな人心が乱れた、悪しき思想(しそう)にまみれた人々さえ、幸せにすることができる、より、大きく、より、絶対的な力がある!!ということです。
ゆえに、現代では、悩みを解決でき、夢や希望、願いを叶(かな)えることのできる法則(ほうそく)は、
『日蓮大聖人の仏法(ぶっぽう)』
しかない!ということになります。
その日蓮大聖人の生命の法則であり、宇宙(うちゅう)の法則であり、無限(むげん)の力が、創価学会の人たちが、となえている、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』
なんです。
南無妙法蓮華経には、始祖の巨人のように、最も大元で、最も根源の力があるがゆえに、あらゆる悩み、あらゆる希望を叶(かな)える力がある!!ということです。
それが、創価学会の人たちが、となえている『南無妙法蓮華経』です。
譬(たと)え話(ばなし)にするならば、こんな感じだと思います。
久遠元初の自受用報身如来(じじゅゆうほうしんにょらい)である日蓮大聖人が、釈尊に頼(たの)みます。
「釈尊ちゃん、釈尊ちゃん、ちょっと、先に行って、仏法(ぶっぽう)を、広めてきてくれないか。」
釈尊は答えます。
「はい、いいですよ。でも、私は、本家本元(ほんけほんもと)ではないので、
期間限定(きかんげんてい)の仏法しか広められませんが、それでも、いいですか?」
日蓮大聖人は、言います。
「うん!いいよ。期間限定の仏法で、十分(じゅうぶん)だよ!その後は、ぼくが、本元(ほんもと)の仏法を、広めるから!!」
と、こんな感じでしょうか・・。
先程、少し、話したように、また、譬(たと)え話にもあったように、釈尊の仏法は、「期間限定」なんです。
その期間が、どれだけか?といえば、釈尊が亡(な)くなってから、二千(2000)年間です。
その二千年は、とうに過(す)ぎています。
ですから、先程(さきほど)、言ったように、釈尊の仏法には、もう、効力(こうりょく)がないんです。
何の効力かといえば、それは、人を幸せにする力です。
だから、釈尊没後(ぼつご)、二千年が経(た)った現代では、釈尊の仏法をやっても、なんの効力もないし、幸せにもなりせん。
かえって、期限が切れているので、期限(きげん)が切れた薬(くすり)と同じように、害(がい)になってしまいます。
すなわち、現代、釈尊の仏法をやったら、幸せになるどころか、不幸になってしまうということです。
それが、現代、一般的に広まっている、葬式仏教(そうしきぶっきょう)であり、観光(かんこう)仏教です。
ですから、お葬式(そうしき)などで、葬式仏教や観光仏教の坊(ぼう)さんを呼んで、お経(きょう)を読んでもらったところで、真実(しんじつ)を言えば、
お金を払って、不幸にしてもらっているようなものです。
マンガ・進撃の巨人に戻ると、やはり、最(もっと)も重要なポイントは、「始祖(しそ)の巨人」だと言えます。
その始祖の巨人の力を、手に入れることが、できるかどうかが、勝敗の鍵(かぎ)になっているということです。
そして、その始祖の巨人は、進撃の巨人の、以前(いぜん)の持ち主であったエレンの父が、始祖の巨人の持ち主であった王家の女性を食ったことにより、始祖の巨人を大家の女性より奪(うば)って、所有(しょゆう)していた。
すなわち、エレンの父は、進撃の巨人と始祖の巨人の両方の力を、自分の中に所有していたということです。
その二つの巨人の力は、エレンの父の命と引(ひ)き換(か)えに、エレンに引き継(つ)がれた。
すなわち、エレンが、進撃の巨人の力も、始祖の巨人の力も、もっているということです。
だから、最も重要な、「始祖の巨人」は、エレンが持っている!!
ということです。
そうなると、エレンは無敵(むてき)ではないか!と考えられる。
なぜなら、巨人たちを、意のままに操(あやつ)ることができる『始祖の巨人』を、自分の中に持っているからです。
ところが、そう、うまくはいかない・・。
始祖の巨人の力を使うためには、条件(じょうけん)があり、その条件をクリアしないかぎり、始祖の巨人を持っていても、その力(ちから)を使うことができない・・。
ちょうど、どんなに高価(こうか)でスゴイ武器(ぶき)や、最新鋭(さいしんえい)の機械をもっていても、使い方を知らなければ、なんの役にも立たないのと同じです。
宝(たから)の持(も)ち腐(ぐさ)れと、いうものです。
エレンの中に、無敵であり、無限の力である、「始祖の巨人」の力はある。
けれで、その始祖の巨人の力を、使うことができない!
自分の中に、その無限の力があっても、使うことができなかったら、無(な)いのと同じです。
それが、エレンの状態(じょうたい)です。
では、その無敵の力である、始祖の巨人の力を使うには、どうしたらいいのか。
そのためには、「王家(おうけ)の血(ち)を引く巨人」と、接触(せっしょく)しなければならない!!
王家の血を引く巨人が、始祖の巨人の力を使うための鍵(かぎ)になっていて、その王家の血を引く巨人と接触することによって、はじめて、鍵が開(あ)き、始祖の巨人の力を、使えるようになる。
だから、エレンは、始祖の巨人の力を使うために、王家の血を引く巨人を、求(もと)めていきます。
その「王家の血を引く巨人」が、エレンの腹違(はらちが)いの兄である、『ジーク 』です。
そこで、エレンとジークは、始祖の巨人の力を行使(こうし)する目的(もくてき)のために、なんとしても、兄弟の接触を、果(は)たそうとします。
そして、始祖の巨人の力の行使を避(さ)けようとしている、もろもろの勢力(せいりょく)と、壮絶な戦いを、繰(く)り広げるわけです。
どんなにスゴイ力(ちから)があっても、使うことができなかったら、何の意味もない。
どんなに大きな可能性があっても、その可能性を、出すことができなかったら、無いのと同じです。
人間の中にも、無限の力は、ある。
人間の中にも、無限の可能性は、ある。
エレンが、始祖の巨人の力を持っていたように、それに変(か)わるような、「幸せになる力」というものが、あると、思う。
幸せになる力があるということに抵抗(ていこう)を感じるにしても、どんな人でも、幸せになる可能性(かのうせい)は、ある!!と思う。
たとえば、宝くじに当たって、億万長者(おくまんちょうじゃ)になることだってある。
仮に、99%、宝(たから)くじに当たって億万長者になることはないとしても、だからといって、無(な)いとは、いえない。
当(あ)たった人は、現実にいるのだから。
ということは、
人間は、幸せになる可能性を、持っている!!
ということだと思う。
また、そんな棚(たな)からぼた餅(もち)のような話しでなくとも、必死に努力して、運(うん)とチャンスに恵(めぐ)まれれば、幸せになる人は、山ほど、いる。
ということは、人間は、やはり、幸せになる力を、持っている!ということです。
それは、可能性を無限に広げれば、進撃の巨人の中のエレンが、始祖の巨人の力を持っているのと、同じようなことだと、思う・・。
そして、エレンと同じように、その力を、出すことができるか、できないかが、鍵(かぎ)となる。
エレンは、始祖の巨人の力を持っている。
しかし、その力を、使うことが、できない・・。
なぜか?
始祖の巨人の力を使うためには、それを使うために、『縁(えん)』が、どうしても必要となるからです。
『縁』とは、何かを起こす「きっかけ」となる対象(たいしょう)のことですが、その『縁(えん)』に触(ふ)れないかぎり、始祖の巨人という無限大の力を、使うことが、できない。
マンガ・進撃の巨人の場合、その『縁』が、王家の血を引く巨人であり、
エレンの兄、ジークだと、いえます。
それと同じように、人間も、幸せのなる無限の力を、持っている。
幸せになる、無限の可能性を、持(も)っている。
そして、その、幸せになる無限の力を出すためには、エレンと同じように、『縁(えん)』が、必要となってくるんです。
その『縁(えん)』とは、何なのか?
幸せの縁とは、何なのか?
その幸せの縁の中で、最も、強く、最も、大きく、究極(きゅうきょく)の、無限の可能性を持った、『幸せの縁』が、創価学会の人たちが、日々、祈(いの)っている、『ご本尊(ほんぞん)』なんです。
ご本尊とは、仏(ほとけ)の生命(せいめい)を、そのまま表現して、書き表(あらわ)したものですが、その「仏の生命」が、根源的な幸せの力であり、最も大元(おおもと)の幸せを創造(そうぞう)するエネルギーのようなものだと、思います。
人間には、幸せになる力が、ある・・!
その幸せになる力を引き出すためには、『縁(えん)』が必要となる。
その幸せを引き出す縁が、「ご本尊(ほんぞん)」だということです。
そして、もう一つ、重要なことが、あります。
幸せになる縁であるご本尊に、ただ、接(せっ)すれば、幸せの力を引き出せるかといったら、そんなことは、ありません。
それだったら、まだ、簡単(かんたん)かもしれない。
けれど、違います。
ご本尊から、幸せになる力を引き出すためには、方法(ほうほう)がある・・!
それが、ご本尊に、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる!
ということです。
これ以外、ご本尊から、幸せになる力を引き出す方法は、ありません。
南無妙法蓮華経とは、仏(ほとけ)の生命の名前です。
その南無妙法蓮華経という仏の生命の名前に、そのまま、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、含(ふく)まれているということです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえた時、呼(よ)ばれて、仏の生命の無限の力も、無限の可能性も、出てくるわけです。
進撃の巨人でいえば、始祖の巨人の力をつかうためには、「王家の血を引く巨人」に接触しなければならないが、それ以前に、自分が「始祖の巨人の力」を、所有(しょゆう)していなければならない。
始祖の巨人の力を所有していないものが、王家の血を引く巨人と接触しても、何も起(お)こらない。
それと同じように、自分の中に、「幸せになる無限の力」を、所有しなければならない。
その幸せになる無限の力を所有するということが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ということになるんです。
南無妙法蓮華経をとなえるということは、その行動と直結(ちょっけつ)して、
自分の中に、「幸せになる無限の力」を所有することに、なっていくんです。
南無妙法蓮華経をとなえた途端(とたん)、自分の中に、幸せになる無限の力が発現(はつげん)し、その瞬間、自分の中に、幸せの無限の力が、所有されるんです。
だから、南無妙法蓮華経を、となえないと、いけないんです。
結論(けつろん)からいうと、本当の幸せを、つかみたいんだったら、南無妙法蓮華経を、となえる以外(いがい)、ありません。
ほかの何をやっても、無理(むり)です。
それほど、南無妙法蓮華経は、スゴイということです。
マンガ・進撃の巨人に、たとえるならば、南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の中に、始祖の巨人を、所有したことになる。
進撃の巨人でいえば、南無妙法蓮華経をとなえ、始祖の巨人を所有した状態で、「王家の血を引く巨人」という『縁』、
すなわち、『ご本尊』という無限の幸せを引き出す『縁』に接することによって、自分の中から、幸せが、発現(はつげん)してくる。
そう、言えると思います・・・。
マンガ・進撃の巨人では、最終的に、エレンは、「王家の血を引く巨人」である、兄のジークとの接触を果(は)たし、始祖の巨人の力を、行使(こうし)できるようになる。
そして、エレンの目的のために、始祖の巨人の力を行使したとき、なぜだか、エレンは、少年の姿(すがた)に戻(もど)る。
そして、少年の姿に戻ったエレンは、叫(さけ)ぶ。
『自由だ!!!』
それは、人間が持っている、本源的な、生命の叫(さけ)びだと思う。
人間が持っている自由への欲求(よっきゅう)、幸せへの希望、さまざまな不幸の足かせを、取(と)っ払(ぱら)って生きたいという欲求。
エレンの姿が、少年に戻ったというのは、それが、生命(せいめい)の上で、可能になったということではないだろうか・・。
自由とは、なにものにも束縛(そくばく)されない喜(よろこ)びのようなものだろうか。
それは、生命が、舞(ま)い上がるような感動!!
おそらく、それは、生命が感じる、最極(さいごく)の歓喜(かんき)ではないかと思う。
創価学会では、あるいは、仏法では、
『南無妙法蓮華経は、歓喜の中の大歓喜(だいかんき)!』
だと、いう。
それは、言い方を変えれば、
『自由の中の、最大の自由!!』
ということだと思う。
南無妙法蓮華経をとなえた時、自分の生命が、解(と)き放(はな)たれる。
それは、幸せの力を、自由につかえるようになる!ということではないだろうか。
マンガ・進撃の巨人にたとえれば、始祖の巨人の力を、使えるようになる。
始祖の巨人の無限の力を、行使できるようになる。
すなわち、幸せの無限の力を使って、さまざまな悩みを解決し、さまざまの夢や希望をかなえ、無限に、幸せを、つかんでいける!ということだと思う。
だから、南無妙法蓮華経は、「歓喜の中の大歓喜」なんだと思う。
ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる時、自分の中から、久遠元初(くおんがんじょ)の生命の力が、湧(わ)き上がり、その生命の力を、使えるようになる。
そして、自分の生命は、少年や少女が、夢を、かなえるような生命状態に、変(か)わっていく。
歓喜の中の大歓喜は、そんな風(ふう)に、譬(たと)えられるかもしれない。
そして、その生命状態は、エレンが、始祖の巨人の力を、行使できるようになったのに似(に)ている。
なぜなら、その大歓喜の生命状態には、困難(こんなん)や障害(しょうがい)に打ち勝つ、強い強い生命力があるので、さながら、それは、無敵のように思えるからです。
だから、負けない!
だから、勝っていける!!
悩みを解決し、希望を、叶(かな)えていける。
そして、自分らしい、素晴(すば)らしい、最高の幸せを、つかんでいける。
それが、
「ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえる!」
ということかもしれない。
あたかも、それは・・、マンガ・進撃の巨人の中で、エレンが、始祖の巨人の力を行使した時、少年の姿(すがた)に、戻り、
『自由だ!!!』
と、叫んだように・・。