ひまわりの種248 [祈り]

創価学会の人たちの決定的な強みは、『祈ることが、できる!』ということです。

たとえば、家族にしろ身近な大切な人たちが、病気や事故にあったとする。
そういう時に、一般的には、いろいろと手はずをとり、手を尽(つ)くすことはできるけれども、その事故や病気にあった人に直接的に影響(えいきょう)させることは、できない。正直、見守るしかない・・。
容態(ようだい)や回復に影響させることができず、見守(みまも)るしか方法はない・・・。

けれど、創価学会の人たちは、違(ちが)う。現実に病気や事故にあった人の容態(ようだい)と回復に、直接的に影響させることができる。

それが、創価学会の人たちの祈りなんです・・!

家族はもとより、かりに病気や事故にあった人とは、直接的には関係しないにしても、その人を知り、回復(かいふく)を願う創価学会の人たちの祈りによって、病気や事故の容態をより良く回復させ、治(なお)っていったことは、それこそ、山ほどあると思う。

しかも、それが大変な病気や事故だった場合、なおさら、創価学会のみんなの祈りが強くなり、現実に影響力を持ち、病気や事故にあった人を回復させていった例は、数えきれないと思う。

もちろん、徹底的な治療(ちりょう)をほどこしてもらうのは、当然(とうぜん)として、それらの治療などの環境も含(ふく)め、あらゆるものをより良くプラスにもっていく力(ちから)が、創価学会の祈りには、現実にあるんです。

創価学会の人たちの『祈り』が不可能を可能にした例も、数えきれないと思う。

それが、本物の祈りなんです。

だからといって、祈りに効果(こうか)があるのならば、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰などで、真剣に祈ればいいじゃないかと思って、祈ってみたところで、祈りに効果がもたらされることは、ありません。

それらの祈りは、間違(まちが)った祈りであり、葬式仏教や観光宗教、神社信仰自体が、間違ったデタラメな宗教なので、どんなに真剣に祈ったとしても、なんの効果もありません。たとえ、命がけで祈ったとしても、なんの効果もなく、返って、間違った宗教なので、間違った結果として、さまざまな形で不幸が出現してしまいます。

それが、世間一般的な祈りです。

だから、そんなものは、やるべきではない・・!

けれど、さきほども言いましたが、本物の祈りは違う!

創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる祈るは、現実に、人生に、世界に、未来に、決定的な大きな影響力を与(あた)えていくんです!現実を動かすことのできる力(ちから)!・・それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえて祈るという『祈り』なんです。

これほど、スゴイことはないんです。
こけほどの武器も、なんいんです。

あらゆるものを幸せに変革(へんかく)していける!
あらゆるものを蘇生(そせい)させていける!
それは、自分でなくても、かりに他人であっても、その人のことを真心こめて祈ることによって、現実に他人のはずの生命を蘇生させ、より良く幸せにしていけるんです。

人生、いろいろありますが、結論から言うと、創価学会の人たちの、『南無妙法蓮華経をとなえる』という祈りほど、すごいものは、ないんです。

それは、棚(たな)からぼたもちのようなことではなく、さままな勇気や知恵、最高の努力や行動をもたらし、あらゆるものを幸せに動かし、蘇生(そせい)させ、最高の結果を生むことになります。

だから、結局(けっきょく)、南無妙法蓮華経を、となえて祈りきった人が、勝利していける。
幸せになっていける!

それが、どんな状況(じょうきょう)であれ、どんな環境であれ、どんな苦難(くなん)や悩みであれ、それがかりに自分でなくても、影響を及(およ)ぼし、蘇生(そせい)させ、幸せにしていける!


それが、人生と未来を勝ち取っていける、最強の力と言える、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!


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ひまわりの種246 [祈り]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
『なぜ、祈りが叶(かな)うのか』
について語っています。

『私たちは、無宗教を自称(じしょう)する人も、何かを心から願っている。何かを心の底(そこ)で祈っている。
これらを、宇宙の法則(ほうそく)のうえから、祈りと現実がきちんと合致(がっち)していくようにしたのが、仏法(ぶっぽう)の祈りです。

小さなギアでも、大きなギアと、きちっと噛(か)み合わせれば、すごい力(ちから)が発揮(はっき)できる。
同じように、「小宇宙」の自分自身が、「大宇宙」の生命と、きちっとギアを噛(か)み合わせていけば、どんな悩みも乗り越(こ)えられる無限のパワーが出るのです。』

たとえ、無宗教と自称(じしょう)しているような人であっても、何かを願っている。
それは、心の底で、何かを祈っているということです。

そこから、さまざまな行動が生まれ、さまざまな人生が形成(けいせい)されていく。

心の底にある『祈り』は、やがて、その人に、さまざまな影響を与(あた)え、さまざまな希望となって、その人の人生を彩(いろど)っていく。

だから、『祈り』というのは、人間の中に必然的(ひつぜんてき)に存在していて、必然的に、その人の中から、わき上がってくるものだと、言えると思います。

だからといって、祈りだったら、なんでも良いかというと、そういうことでもない。間違(まちが)ったものに祈るということは、自分が祈りをかなえたくて祈っているにもかかわらず、祈りがかなうどころか、逆に、間違ったものに祈っているので、その人に、さまざまな形で悪影響を与(あた)え、 間違ったものに祈ったという結果として、さまざまな形で、その人に不幸をもたらしてしまう。

だから、祈りだったら、なんでも良いということではなく、間違ったものに祈るということは、不幸をもたらす原因になってしまう。

その間違った宗教と言えるのが、日本にはびこっている葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰です。

だから、正月などに、それらの宗教に、どんなに真剣に祈ったとしても、逆に不幸になる原因をつくることになり、さまざまな形で、不幸が出現してきてしまう。

それが、世間一般的に考えられる宗教です。

池田先生が言っていますが、小さなギアでも、大きなギアと噛(か)み合うと、すごい力を発揮できる。
それと同じように、小宇宙と言える自分自身の生命と、大宇宙という大きな生命が、きちっとギアが噛み合ったとき、どんな悩みも解決していける無限のパワーがでてくる。

その時に、祈りがかなう方向に進んでいけ、やがて祈りが、かなっていく・・!

それができる真実の祈りが必要であり、その自分自身の生命のギアと大宇宙の生命のギアが、がっちり噛(か)み合い、幸せの方向に、すべてを動かしていける力(ちから)ある祈りが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の祈りなんです。

だから、すごいんです!
だから、悩みや問題を解決していけ、だから、夢や希望をかなえていけるんです。

それが、創価学会の祈りなんです。

いわば、世間一般的な祈りは、自分の祈りと大宇宙の生命のギアが、決して噛(か)み合ない、空回(からまわ)りの祈りです。
だから、祈りはかなわないし、逆に間違ったものに祈っているので、不幸を引き起こす原因になってしまう。

それに対して、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえて祈る『祈り』は、自分の祈りと大宇宙の生命のギアが、がっちり噛み合い、まるでサーフィンで波にのるように、楽しく、悠々(ゆうゆう)と幸せをつかみ、勝利していける。

そういう本物の祈りが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる『祈り』なんです。


最初に話したように、たとえ無宗教を自称しているような人でも、何かを心から祈っている。

本当は、何かを心の底で祈っている。

その本源的(ほんげんてき)な祈りを、現実の形にして、現実に祈りをかなえていける、また、悩みや問題を解決していける、また、夢や希望をかなえていく大きな力(ちから)となるのが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!


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ひまわりの種245 [祈り]

創価学会に入って、日々、南無妙法蓮華経を、となえて祈る、仏法(ぶっぽう)の信仰をしていると、

『祈って、良かった!』

と思えるようなことが、たくさん、起(おこ)ってくる。

それは、どういうことかというと、『祈る』という行為(こうい)が、日々の生活の中で、現実に効果(こうか)をもたらし、結果として現(あらわ)れてくる!ということです。

世間一般的には、「祈る」という行為が、日常の生活の中で、その効果を実感するようなことは、まず、ないと言っていいいと思います。なにか良いことがあっても、きっとあの時、祈ったから良かったんだと、後から無理(むり)やり、こじつけるのがやっとだと思う。

世間一般的には、「祈る」という行為は、それほど、いいかげんなものであり、当てにならないものだと思う。

それどころか、葬式仏教(そうしきぶっきょう)にしても神社信仰にしても、観光宗教にしても、はっきり言って、でたらめな間違(まちが)った宗教なので、祈りば祈るほど、間違っているがゆえに、逆にさまざまな形で、不幸という結果がでてくるというのが、本当のところです。

それに対して、創価学会の祈りは、違(ちが)う!!

祈るという行為に対して、明確な結果が出てくる。
祈るという行為が、生活を、人生を、幸せにしていく大きな力となる!

日々、南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、人生のさまざなな分岐点(ぶんきてん)において、
『ああ・・! 本当に祈って良かった! 南無妙法蓮華経をとなえて本当に良かった!』
と思えるようなことに、本当に実感として、出くわし、歓喜(かんき)をもって、それを認(みと)め、感じることができる・・!

『南無妙法蓮華経を、となえて祈る』という創価学会の『祈る』という行為は、日々の生活や人生と、完全に直結(ちょっけつ)し、人生と未来をより良く幸せにしていくことと、正比例(せいひれい)して影響(えいきょう)をおよぼしていく。

『祈り』が、人生にとって、とても重要なことであり、かけがいのないことだと、実感できる。

すなわち、南無妙法蓮華経をとなえて祈っていくことによって、さまざまな悩みや問題を解決していけ、希望に向かって、自分自身を大きく開花していけるようになっていく。


本当は祈ることほど、スゴイことはない。
祈ることほど、効果があり力(ちから)があるものはない。

その最(もっと)も効果があり、最も自分と人生を良くし、悩みや問題を解決していけ、夢や希望をかなえていける道が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰だということです・・!


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ひまわりの種202 [祈り]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が言っています。

『心に大きな目標を持った人は、それだけ大きな人生を生きられる。
自(みずか)ら決めた目標へ、祈り戦い抜(ぬ)く人は、最後に必ず勝利する。』

心に大きな目標があれば、大変かもしれないけど、目標に向かって、さまざまなことに挑戦し、希望を持って生きていける。確かに目標が大きければ、 大きな人生を生きていける。

それは、当たり前のことであり、だれでもわかると思う。

けれど、
『自(みずか)ら決めた目標へ、祈り戦い抜(ぬ)く人は、最後に必ず勝利する。』
というのは、なかなか理解できないかもしれない。

『祈り』というものが、それほど重要で、人生にかかわってくるとは思えないからです。

祈るというと、普通、世間一般的(せけんいっぱんてき)には、正月などに、神社やお寺に行って、パンパンと手を合わせ祈ってくる・・。
そんな感覚(かんかく)しか、普通はないと思う。

また、祈ることが大切なんだったら、お寺や神社、観光宗教などに祈ればいいじゃないかと思い、それらに、どんなに真剣に祈ったとしても、逆に、幸せになるどころか、不幸になります。

なぜなら、葬式仏教(そうしきぶっきょう)にしても神社信仰にしても、観光宗教にしても、それらは間違(まちが)った宗教であり、なんの効力(こうりょく)もないデタラメな宗教だからです。それらは間違っているがゆえに、どんなに祈ったとしても、逆に不幸になっていきます。すなわち、さまざまな形で不幸が出現してきてしまうということです。

だから、そんな祈りを当(あ)てにすること自体(じたい)、間違っているし、そんなことは、するべきではありません。

ところが、創価学会の『祈り』は違う!!

創価学会の祈りは、勝負を決する祈りなんです。
祈ることが、人生の勝負を左右する。祈ることによって、幸不幸が、わかれてくる。

要(よう)するに、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる祈りには、人生を幸せにするだけの大きな力(ちから)があるんです。人生を未来を動かす強力な力(ちから)があるんです。

それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の祈りです。

仏法(ぶっぽう)では、『一念三千(いちねんさんぜん)』という法則(ほうそく)を説きます。

一念三千とは、心の違(ちが)いによって、違う三千の世界ができあがっていくという意味です。ようするに、心を変えていくことによって、環境(かんきょう)や世界、未来が変わっていく。その根本が『こころ』であり、その『こころ』には、未来を開く無限のエネルギーが込(こ)められていると、いうことです。

心によって未来が変わっていくということは、なんとなくわかりますが、だからといって、そう簡単に心を変えていけるものではありません。心は、なかなか変えられないのが、本音(ほんね)だと思う。

けれど、心を、幸せの方向へ、勝利の方向へ、変えていけたなら、未来は開け、人生が開けてくる。

それは、わかると思う。

その心を、幸せの方向へ、勝利の方向へ、変えていける決定的な方法が、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

南無妙法蓮華経を、となえゆくことは、もっともっとスゴイ力(ちから)と可能性があるのですが、根源的(こんげんてき)に、この心を変えていけるということがあるから、創価学会の中で祈り抜き、戦いぬく人は、 勝利できるんです!

本当は、これほどスゴイ力(ちから)は、ないんです。

だから、まず目標を決める。けれど、目標を決めただけでは、まだ漠然(ばくぜん)としている。その目標を創価学会のご本尊に(※ご本尊(ほんぞん)とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊です。)・・・そのご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経をとなえて祈っていくとき、目標に向かって、あらゆる知恵となってあらわれ、また強い強い生命力となって、その人を輝(かがや)かせ、行動へと駆(か)り立てる。

そして祈りと共に、創価学会の中で活動していくことによって、自分自身が目標をかなえていける自分に変わっていく。自分が変わり、そのことによって、環境も変わっていく。なぜだか自分の目標がかなうように、世界のあらゆる環境(かんきょう)が引きつけられ、自分を助けバックアップしてくれる存在になっていく。自分が変わり、環境も変わっていき、 さまざまな運を引き寄(よ)せられるようになっていく。

そして、最終的には、目標をかなえ、勝利して、幸せになっていくことができる!

それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

ゆえに、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる祈りは、人生を決(けっ)し、幸せを勝ち取る決定的な方法だと言えます。

それが、目標を決め、祈り、戦いぬいたならば、必ず勝利していける、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!


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ひまわりの種192 [祈り]

以前、K1の解説などで有名な角田信明が、K1やスポーツの世界でも、

『信仰は、力(ちから)を呼(よ)ぶ。』

と言っていました。

信仰は力を呼ぶ・・・。

やはり、信仰には、人間から力(ちから)を引き出すエネルギーがあるということだろうか・・。
人間は、考えたり希望したり、心を持つ生き物だから、結局(けっきょく)のところ、心から行動が生まれ、心から力(ちから)が呼び起こされると言えるかもしれない。

その心から生まれる無限のエネルギーを、最大限に引き出す力(ちから)が、信仰にはある!ということだと思う。

だからといって、信仰なら、なんでもいいということではない。

間違った信仰は、力を引き出すどころか、人を不幸にしてしまう。

すなわち、どんなに真剣にその信仰をやってみたところで、その信仰が間違った信仰だったならば、逆に空回(からまわ)りし、さまざまな形で、不幸が出現してしまう。

はっきり言えば、さまざまな不幸は、根源的(こんげんてき)には、間違った宗教から起こると言い切って、間違いない・・!

たとえば、日本にはびこる葬式仏教(そうしきぶっきょう)にしても神社信仰にしても、観光宗教にしても、すべて間違った宗教です。それらはちょっと考えれば、わかりますし、仏法哲学(ぶっぽうてつがく)を、ひもとけば、完全に間違った宗教であることが、わかります。

だから、はっきり言えば、正月だといって、神社やお寺に参拝(さんぱい)しに行ってみたところで、それらは、あきらかに間違った宗教なので、幸せになるどころか、逆に不幸になる原因を作りに行っているだけです。

それが、本当のところです・・・。

だから、『信仰は力を呼ぶ』というのは、条件があって、その信仰が正しい信仰である場合には、確かに『信仰は力を呼ぶ』ということです。

その本当に力を呼ぶ、本当に幸せになっていける唯一(ゆいいち)の信仰といっていいのが、実は、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです!

だから、創価学会の南無妙法蓮華経を仏法を実践し、真剣に南無妙法蓮華経を、となえていった時、さまざまな悩みが解決し、夢や希望も、かなえていけるようになっていくんです。

ようするに、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の信仰は、人間の中から、無限の力を引き出していけるんです!!


心の持つ無限の力・・・!

角田信明が『信仰は力(ちから)を呼(よ)ぶ。』と言いましたが、本当の意味で、確実に、現実に、人間の中から力を呼び起こし、悩みや問題を解決し、夢や希望をかなえていける力(ちから)が、創価学会が実践する、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・・!


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ひまわりの種167 [祈り]

英語で、「invoke」という言葉がある。
「invoke」は、発動する、行使(こうし)する、とか、祈願する、祈る、という意味がある。

そのほか、「invoke」には、「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」などの意味もあり、いわば、「invoke」は、ロールプレイングゲームなどて、魔法獣を召喚(しょうかん)するといったところだろうか・・。

「invoke」という言葉は、キリスト教から来ていると思うが、これは、なかなか、おもしろいと思った。

最初に言ったように、「invoke」には、祈る、祈願する、という意味がある。ただし、このキリスト教から来ている「invoke」という言葉の「祈る」「祈願する」は、「invoke」の他の意味でもある、「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」という意味からもわかるように、自分の外にあるものを呼び出す。
自分の外にあるものを、もらい受けるという意味合いになってくると思う。自分の中にはないものを、神様などから、ほどこしてもらうというところだろうか・・・。

だから、キリスト教の「祈る」「祈願する」というのは、自分には、幸せになる力(ちから)がないから、自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、ひたすら、おすがりして、ほどこしてもらう・・といった意味合いが強くなってくる。

こういう自分には幸せになる力がないから、自分の外から、幸せになるための力(ちから)をもらう。環境や人や権力など、自分の外にあるものによって幸せになろうという生き方のことを、『外道(げどう)』と言います。

だから、環境がこうだから、幸せになれない。あの人がこうだから、幸せになれないなど、幸せになれない理由を、自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方は、『外道(げどう)』の生き方だと、言えます。

さっきも言ったように、キリスト教は、神という自分とは、かけ離れた存在に、幸せを祈ります。自分には幸せになる力(ちから)がないから、神におすがりすると、いうことです。だから、キリスト教は、『外道(げどう)』の宗教だと言えます。

ところが、創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、違う。

創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)では、自分自身が仏(ほとけ)なんだ!と説(と)く。『あなたの中に、素晴らしくて最高の仏(ほとけ)の生命が、あるんだよ!』と説く。『だから、自分の中から、素晴らしくて偉大な仏(ほとけ)の生命を引き出して、幸せになっていくんだよ!』と説く。

こういう生き方を『内道(ないどう)』と言います。

だから、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、『内道(ないどう)』の宗教だと言えます。

ここに、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法と、その他の宗教との決定的な違いがあります。

神様や仏様など、自分とはかけ離れた存在に、おすがりする、おすがり信仰・・。ここには、はっきり言って、希望はありません。神や仏などを、あがめれば、あがめるほど、人間との距離がどんどん、離れていく。そして、人間は、どんどん卑小(ひしょう)になり、みじめな存在になっていく。そして、精神的には、神や仏など、自分があがめるものの奴隷(どれい)のような存在になってしまいます。

冷静(れいせい)に考えて、このような状態で、幸せになれるとは、思えません。

それが、日本にはびこる葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰だと言うことも、できます。また、はっきり言えば、それらの葬式仏教や観光宗教、神社信仰は、間違った宗教であり、間違っているがゆえに、どんなに祈ったとしても、逆に不幸になってしまいます。それは、さまざまな形で、不幸という結果が出てきてしまうということです。


「invoke」という言葉における、「祈る」「祈願する」という意味は、自分にないものを、外から呼び出す。自分ではなく、棚(たな)からぼた餅(もち)のように、環境や人、外部の何かを呼び出して、幸せになろうという意味合いが強いと思います。

それに対して、創価学会における、『祈る』という行為(こうい)は、違う!!!

創価学会における『祈る』という行為は、自分の中から、幸せになる力(ちから)を呼(よ)び起こすんです!!

自分の中にある、必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命を、呼び起こし、自分の中から、強い強い生命力を、湧(わ)き上がらせて、幸せになっていくんです。

神様や仏さまに、おすがりするのではなく、本来、自分の中にある無限の力(ちから)を、呼び起こしていく!

これが、創価学会での、『祈る』という行為なんです・・・!

そして、その結果として、自分の生命が輝(かがや)き、蘇生(そせい)してゆく。
そして、蘇生(そせい)し輝いた自分の生命が、まわりの環境や世界を照(て)らし、環境や人、世界を変えていくんです。

それが、創価学会の人たちの『祈り』なんです。

その自分の中から、仏(ほとけ)の生命という無限の可能性と力(ちから)を、湧(わ)き上がらせ、自分の中から、悩みや問題を解決し、自分の中から幸せを勝ち取っていけるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!!!


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ひまわりの種110 [祈り]

創価学会二代会長の戸田城聖先生が、
『真剣にご本尊(ほんぞん)に祈り切っていきなさい。(南無妙法蓮華経を、となえて祈ること) この簡単な勝利の原理が、皆(みな)、なかなか、わからない。これが遠いように見えても、一番、確実な早道になっていくのです』

と、言っています。

※ちなみに、ご本尊(ほんぞん)とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その自分自身の生命に、必ず幸せになることのできる仏(ほとけ)の生命が、そなわっていることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。


人は、幸福になろうと行動している。また、自分にとって幸せに近い方向に行動しようとする。
だから、自分にとって有益(ゆうえき)だと思われることを、進んでやろうとする。

それは、当然のことです。人間は、幸せが好きだからです。人間は、幸せを求めているからです。

にもかかわれず、世界には幸せになれない人が、山ほどいる・・!
また、人から見たら幸せに見えたとしても、本当は自分で、幸せでないと思っている人も、たくさん、いる・・!

なぜだろうか?

それは、結局は、幸せの方向に進んでいない!!ということです。
自分で幸せを求め、幸せの方向に進もうとしているにもかかわらず、実は、幸せの方向には、進んでいないと、いうことです。

ここに、不幸を生む大きな狂(くる)いと、歪(ひず)みが、存在している。

自分が幸せになろうとして生きているにもかかわらず、幸せになれないと、いうことは、幸せになり方を知らないということであり、幸せの方向に進む方法を、知らないと、いうことです。

ここに人間の慢心(まんしん)があり、過信(かしん)があり、人生に対する曖昧(あいまい)な甘(あま)えが、存在している。

だから、どんな人でも、真実の幸せを、つかめる確固(かっこ)たる方法が、求められる。

その、どんな人でも、必ず、確実に、幸せに向かって進んでいけ、しかも最高の幸せを、つかんでいける方法が、創価学会が、実践している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです!!!。

幸せをつかむための、これ以上、素晴らしく、これ以上確実で、しかも最高に満足の幸せを得る方法は、存在しません!!

それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。

戸田先生が、さらに言っています。
『日蓮大聖人のこの教え(創価学会の南無妙法蓮華経の仏法のこと)は、万人(ばんにん)が宇宙大の生命力を発揮(はっき)する教えであり、この教えによって(南無妙法蓮華経の仏法によって)、人類は真の幸福に歓喜(かんき)できるのである。』

南無妙法蓮華経は、あまりにもスゴすぎて、わからないかもしれないけれど、人間の生命自体を、幸福に向かって、最高に歓喜させてくれるんです。そして、自分の生命を、真っすぐに幸福に向かわせ、幸福に向かって一直線に進んでいくことが、できる。

そして、南無妙法蓮華経の力(ちから)は、あらゆる幸福に必要なものを、自分に引き寄(よ)せ、しかも、自分の人生と境涯(きょうがい)を、大きく幸せに変革していってくれるんです。

人生の中で、南無妙法蓮華経を、となえぬくことによって、絶えず自分と人生を幸せの方向に変革し、どこまでも成長していける。

それが、南無妙法蓮華経なんです。

南無妙法蓮華経を、となえることによって、自分の未来に、真っすぐな幸せの道が、開けてくるんです!

当然、人生だもの、いろいろと大変なことは、あるでしょう。
けれど、南無妙法蓮華経を、となえぬくことによって、あらゆる困難を栄養に変え、あらゆる試練(しれん)も、成長の糧(かて)として、どこまでも進んでいける。

それが、南無妙法蓮華経なんです!

ゆえに、戸田先生が言うように、真剣に、ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえぬく以上に、幸せへの近道は、ないんです。
また、最も確実で、最も素晴らしい最高の幸せを、つかむ方法も、ないんです!

それが、創価学会が、実践してる、幸せの、一番!確実で早道である、南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰なんです・・・。


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ひまわりの種88 [祈り]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。
『誰(だれ)かに愚痴(ぐち)をこぼしても、何も生まれない。
題目(南無妙法蓮華経)を唱(とな)えて、ご本尊(ほんぞん)に悩みを訴(うった)えれば、勇気と智慧(ちえ)と力(ちから)が湧(わ)いてくる。智慧(ちえ)が光る。諸天善神(しょてんぜんじん)が、厳然(げんぜん)と、あらわれる。』

ちなみに、ご本尊(ほんぞん)とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その自分自身の生命に、必ず幸せになることのできる仏(ほとけ)の生命が、そなわっていることを、あらわしたものが、ご本尊です。

また、諸天善神(しょてんぜんじん)とは、創価学会の南無妙法蓮華経を仏法を、実践していると、自分の夢や希望、祈りを、かなえることを、バックアップし助けてくれるような存在が、自分の人生に、現(あらわ)れてきます。こういう自分の祈りが、かなうためにどうしても必要な存在が、現実にあらわれてきたりする、その存在を諸天善神(しょてんぜんじん)と、いいます。
また、そのような、あらゆる現象(げんしょう)を、諸天善神と、とらえることも、できます。


よく人が言うように、本当の祈りというものは、弱いものが、おすがりするものでは、ない。本当の祈りというものは、強くないと、できないんです!そして、その祈りは、勇気と智慧(ちえ)と、強い強い生命の力(ちから)となって、自分の中から、わき上がってくるんです!そして、それと同時に、自分の夢や希望をかなえるために、どうしても必要な、自分をバックアップし助けてくれるような存在も、自分の人生に、現(あらわ)れてくる。それが、力(ちから)ある、本当の祈りなんです。

だから、その強い祈りによって、内面的にも、外面的にも、自分の夢や希望を、かなえる、あらゆるものが、わき上がってくるのが、創価学会が、実践している、南無妙法蓮華経を、となえる、祈りなんです!

だから、よく人が言う、宗教なんて、弱いものがするものだというのは、おかど違(ちが)いで、強いから、祈ることが、できるんです!よく、創価学会を、バカにする人のような言い方を、させてもらえれば、『弱いから、祈れないんです!』自分の生命の中にある、『信じることのできない弱さ』、『祈ることのできない弱さ』が、その人に大きな悩みや不幸として、のしかかっている!と言うことが、できます。(だからと言って、間違ったものに祈ってはいけない。間違ったものに祈れは、どんなに強く祈っても、間違ったものに祈っているので、どんどん、不幸になっていくからです。だから、正しい対象に祈るというこが、とても大切になってゆき、創価学会の存在が、とても重要になっていきます。)

創価学会が実践する南無妙法蓮華経の仏法は、その信じることのできない弱さ、祈ることのできない弱さを、打ち破り、ご本尊に、真剣に、南無妙法蓮華経を、となえて祈ることによって、自分の弱さを打ち破り、勇気や智慧(ちえ)、挑戦しゆく強い強い生命力を、わきあがらせて、人生を勝利し、幸せになっていけるんです。

そして、その強い祈りは、自分の周りや環境、世界をも動かし、自分の希望や祈りをかなえるために必要な諸天善神とも言える存在も、あらわれてくるんです。

祈ることほど、強いことはないんです。祈ることほど価値があり、あらゆるものを、生み出していけるものは、ないんです!

それが、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経を、となえて祈る』ということなんです。


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ひまわりの種65 [祈り]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、『祈りに勝(まさ)る力(ちから)はない。祈りは、一切を変えていく原動力である。勝利への強き祈りの一念(いちねん)から、大確信も、緻密(ちみつ)な計画も、勇気ある行動も生まれるのだ。』

と言っています。

「祈り」というと、一般的には、「おまけ」みたいにしか考えられていない。「まあ、気晴らしにちょっと、祈ってみるか・・」とか、なにかに挑戦している時、「たんなる願掛け(がんかけ)に、祈っておこう」みたいに、祈り自体に期待しているのではなく、宝くじみたいなオマケである遊び感覚で、祈りというものを、考えている人が、ほとんどだと思う。

実際、そんな祈りは、くだらないし、なんの役にも立たない。かえって、祈る対象が何であるかも考えないで、間違ったものに祈っているので、害になり、自分の人生に不幸をもたらす原因にしかなりません。

このへんが、人は、わからないのだけれど、間違ったものに祈るということは、間違った結果を生むということなんです。だから、不幸になる原因にしかならない。たとえば、世間一般に広められている葬式仏教や観光仏教などは、あきらかに間違った宗教で、そんなものに祈ったところで、不幸を招(まね)くだけです。

ところが、創価学会の人たちの祈りは、違う!!!それは、正しき対象に正しき祈りを、しているということです。それは、正しい結果、すなわち『幸せ』を、もたらします。

だから、正しき仏法である、創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法には、人を幸せにしていく大きな力があるということです。具体的に言うと、『ご本尊(ほんぞん)に、無妙法蓮華経を、となえて祈る』という行動には、あらゆるものを動かす、無限の大きな力がある!ということです。

(ちなみに、ご本尊[ほんぞん]とは、創価学会が信じ祈っている対象の本尊で、仏[ほとけ]の生命そのものを、あらわしたものでもあり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その必ず幸せになっていける仏[ほとけ]の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊[ほんぞん]です。)

だから、その『ご本尊(ほんぞん)に、無妙法蓮華経を、となえて祈る』という創価学会の人たちの祈りは、世間一般的な祈りに対する考え方とは、まったく違って、池田先生が言うように、『一切を変えていく原動力となる!』ということです。

南無妙法蓮華経の力は、無限大なので、ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえて祈る時、その勝利への強き祈りの一念(いちねん)から、『大確信』が生まれ、そこから『緻密(ちみつ)な計画』が、わきあがり、その結果、『勇気ある行動』として現実の人生を切り開くことになっていきます。

だから、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経を、となえて祈る』ということは、一切の幸せを生み出す原点となり、またそれは、一切の幸せを生み出す最高の行動となるんです。

それほど、重要で大切なのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる『祈り』なんです!!。


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ひまわりの種60 [祈り]

人は、だれでも自分の夢や目標、幸せに向かって生きている。そのために目的にかなう行動をして、目的を、かなえるために、さまざまな努力をして生きている。

それは、あたりまえのことであり、当然のことであり、だれもが当たり前のようにやっていることなので、だれでもわかるし、それを否定する人は、いないと思う。

けれど、自分の目的や幸せ、自分の人生に、宗教が、かかわっているか?というと宗教に関しては、ほとんどの人が無関心であり、興味(きょうみ)を示(しめ)さない。

宗教は、自分の人生や幸せには、関係ないもので、かかわるべきものではなく、そんなものに時間を使うべきではないと、考えている人が、ほとんどだと思う。

ところが、創価学会の人たちは、違う。創価学会の人たちには、『祈りとして、かなわざるなし!』と言われる『ご本尊(ほんぞん)』がある!!ご本尊に、自分の目的や幸せを、『祈る』ということから始め、人生に挑戦している。

実は、この差は、あまりにも大きい!!!『祈りとして、かなわざるなし!』と言われる『ご本尊』から人生に挑戦していくことによって、最初から「必ず勝利する!」という強い強い確信のもとで、夢や目的に向かって行動している!

なにごとも、「必ず、勝つ!」という心、一念(いちねん)が強いほうが勝利すると言われている。また、実際、そうだと思う。しかも、創価学会が祈り信じているご本尊には、それだけのスゴイ力(ちから)と可能性が現実にあり、また、それだけの力があるから、創価学会は世界192カ国に広がってきている。

そのスゴイご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえて祈ることによって、あらゆるものが、自分の夢や目的をかなえる方向に動き出す。
祈りによって、世界のあらゆるものが、自分をサポートしてくれる強力なサポーターのような役割を果(は)たしてくれるようになり、すべてのものが、祈りをかなうようにバックアップする存在になってくる。

『ご本尊』に祈る(南無妙法蓮華経を、となえる)ということは、実は、自分の幸せにとって、あらゆるものを動かす、スゴイ行動なんです。

だから、人生を祈りから出発するか、そうでないかは、天国と地獄くらいの大きな差が、でてきてしまう。(と言っても、間違ったものに祈ってはいけない!間違ったものに祈ると、どんなに信念があっても、間違ったものに祈っているので、祈りが、かなうどころか、どんどん不幸になっていくからです。)

だから、正しい対象に、正しい祈りを、ささげていった時、祈りは、人生を大きく動かしていく力(ちから)となり、人々を幸福と勝利に導(みちび)く。

その勝利と幸せを導(みちび)く、スゴイ力(ちから)が、創価学会が祈っている『祈りとして、かなわざるなし!』の『ご本尊』であり、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰なんです。


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