ひまわりの種310 [希望]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っています。

『希望がなければ、希望をつくればよい。
光がなければ、自分が太陽になればよい。

一人の人間が、わが生命に「希望の太陽」を輝(かがや)かせていくならば、その光彩(こうさい)は、わが家族、わが地域、わが国土(こくど)を照(て)らしながら、必ずや大いなる変革(へんかく)を可能にするのであります。』


世の中は、さまざまだ。
人間も、さまざまだ。

問題も、いろいろ、あると思う。
環境(かんきょう)が悪い。世の中が悪い。
あの人が悪い。この人が悪い。

数えていたら、きりがないほど、さまざまな問題があり、その分、悩みもあるかもしれない。

すべてがうまくいく職場、あるいは人生は、ないかもしれない。

その中で、どうしていくか。
その中で、どうして、幸せを勝ち取っていくか・・。

現代という時代は、確かに、希望の見えづらい、光が届(とど)きづらい世の中と言えるかもしれない。

でも、だから、あきらめるのか?
だから、世の中に文句(もんく)を言って、なげやりに過(す)ごすのか?

違(ちが)う!

希望は、自分でつくるしかない!!

希望がないのなら、つくればいい!
光がないのなら、自分が太陽になればいい!

自分が、希望になり、太陽になっていったならば、その自(みずか)らの生命の輝きによって、まわりも輝いてきて明るくなっていく。幸せになっていく。当然、その輝きの中心に自分がいるんだから、 自分も明るく輝いき、幸せになっていく。

そこに、幸せをつかむ、ひとつの布石(ふせき)がある。

けれど、これは、理屈(りくつ)では、わかる。だけれども、具体的(ぐたいてき)な方法がわからない。
自分が太陽となり輝くといったって、どうしたらいいか、わからないし、現実味(げんじつみ)がない。

みずからを太陽と輝かせるもの・・。
みずからの生命から光を放(はな)ち、周囲(しゅうい)と世界を照らし出していけるもの・・!

その決定的な何か!が必要となってくる。

そして、その、現実的で、決定的な方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

生命の輝き、生命から放(はな)たれる幸せの力・・。

その生命を輝かせるもの、生命から放たれる幸せの力(ちから)そのものが、創価学会の人たちが、日々、となえている、『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』だと言えます。

発電所(はつでんしょ)が、電気を作り出すように、南無妙法蓮華経は、人間の生命の中から、生命力を作り出してていく。わき上がらせていく。だから、南無妙法蓮華経をとなえることは、生命の中から、幸せの輝きを、発電所のように作り出し、その人を太陽のように輝かせる。

幸せの光、希望の光、勇気の光、蘇生(そせい)の光を作り出し、その人を太陽のように輝かすのが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

その光は、やがて、悩みを解決する力(ちから)となり、夢や希望をかなえていく力となる。また、病気などを克服(こくふく)する大きな力ともなっていく。

自分の生命そのものが、蘇生(そせい)し、輝いていったならば、それは、あらゆる面で、その人を幸せにしていく。そしてそれは、家族や地域、職場を照らす光となり、地域を、社会を、そして世界を幸せに輝かせていく結果にもなっていく。

太陽が一つだけれど、世界を照らし出すことができるように、ひとりの人間であっても、自分が希望となり、自分が太陽となっていくことによって、家族も、地域も、世界も、幸せに変えていくこてが、できる。

それを、現実の上で、だれでも、可能にしたのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法の信仰だと言えます。

だから、自分が、希望になればいい。自分で希望をつくればいい。光がなかったら、自分が太陽になればいい。

それが、人生の上で、確実に、本当に実現できるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だと、いうことです。


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ひまわりの種309 [日常]

以前、日本の宗教研究の権威(けんい)であるという方が、ラジオで、日本の一般的な宗教について、語られていたのを聞いたことがありますが、その内容(ないよう)の、あまりものくだらなさに、呆(あき)れ返(かえ)ったことがありました。

けれど、それは、その宗教研究家が悪いのではなくて、日本の一般的な宗教が、あまりにもくだらないので、どんなにがんばっても、どうしても、くだらない話ししかできない!ということです。

だから、他のだれが話したとしても、くだらない話ししか、できなかったでしょう。

それに、ただ、くだらないだけならいいのですが、そのような、くだらない、でたらめ、まやかしの宗教というものは、根本(こんぽん)からして、まやかしの間違(まちが)った宗教ですから、真剣に祈れば祈るほど、逆(ぎゃく)に、間違ったデタラメの結果として、 その人にさまざまな不幸をもたらす結果になってしまいます。

間違ったデタラメの宗教に祈るということは、その間違ったデタラメの宗教に、自分の生命を人生を、ゆだね、ささげていくことになります。間違ったデタラメの宗教に、自分の生命と人生をゆだね、ささげていったなら、当然(とうぜん)の結果として、自分の生命と人生は、デタラメの間違ったものになっていきます。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったなら、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまいます。

それが、間違った宗教というものです。

そして、その間違った宗教が、日本の葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教などです。


そして、もう一つ言えることは、たとえ宗教研究家であっても、現実に幸せという結果がでる宗教、悩みや困難(こんなん)を解決していける、『本物(ほんもの)の宗教』をやったことがなかったら、真実と確信のある話しは、できない!!ということです。

たとえば、どんなにリンゴの成分(せいぶん)を語り、細かく分析(ぶんせき)したとしても、リンゴのおいしさは、わからない!ということです。

リンゴの成分について、長々と語るよりも、リンゴをひとつ取って、「ガブリ」と食べてみなかったら、そのおいしさは、わからないと、いうことです。

現実的な人間にとっては、研究も大切かもしれませんが、食べてみて、おいしいか?まずいか?という現実の結果が大切であり、その、実際に味(あじ)わうことのできる現実がなかったら、なんの意味もなさないということです。

現実においしいのか、どうか?、その結果が、現実の人間にとっては、とても大切だということです。

そして、その、現実に結果のでる、悩みや問題を解決していけ、夢や希望をかなえて幸せをつかんでいける、真実の宗教と言えるのが、創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

そして、その現実に幸せという結果を出していける、真実の仏法(ぶっぽう)の信仰を実践(じっせん)していった時、あらゆるものが見えてくる。あらゆる事象(じしょう)がわかってくる・・と言えると思います。

根本(ほんぽん)になるものが、わかっているから、そこから、すべてを説明でき、理解していけるということです。

それは、人生という道にも通(つう)じ、自分は、どうしたらいいのか、どうしたら幸せになるのか、どうしたら、自分の希望をかなえていけるか、その道が、明確にわかってくる。迷(まよ)わない! 

だから、勝利していける。視野(しや)が開けていく!希望が見えてくる!そして、勇気が湧(わ)いてくる!!

幸せをもたらす、大元(おおもと)の法則(ほうそく)がわかっているから、希望がある!怖(おそ)れない!負けない!


それが、現実に結果の出る、悩みや問題を解決していける、夢や希望をなかえる大きな力(ちから)となっていける、法則であり、本物の宗教と言える、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の信仰なんです・・・!


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