ひまわりの種342 [悩み]

ディズニーのアニメで、「シュガー・ラッシュ」という映画があります。

この物語は、ゲームの世界のキャラクターを、擬人化(ぎじんか)したような物語で、
ゲームセンターのモニター画面の中で動いているキャラクターが、いかにもその時間、働いて生活しているような構成(こうせい)になっています。

その中でヒロインとして登場するのが、少女ヴァネロペです。

ヴァネロペは、お菓子の世界に存在(そんざい)し、その世界では少女たちがカーレースで勝敗を競(きそ)っている。

簡単(かんたん)に言えば、ゲームセンターのカーレースのゲームの世界に生きているという設定(せってい)です。


けれど、ヴァネロペには、不具合(ふぐあい)がある!!


コンピューターでよく言う 「バグ」 ということでしょうか・・。


ヴァネロペは、そのゲームの世界の不具合であり、マイナスの存在だと扱(あつか)われている。

そのために、ヴァネロペは、他の人たちから「のけ者」にされ、カーレースに出ることもできない。

みんなから、蔑(さげす)まれ、嫌(きら)われる存在として生きている。


ある時、別のゲームの世界から迷(まよ)い込んだラルフは、
お菓子の世界で、そのヴァネロペと出会う。

そして、ラルフが持ってきたメダルによって、ヴァネロペは、カーレースの出場の権利(けんり)を得る。

しかし、お菓子の世界の王は、なぜだか、執拗(しつよう)にヴァネロペのレースへの出場を阻(はば)もうとする。

ヴァネロペには「不具合」、バグがあり、彼女がカーレースに出場すれは、このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、壊(こわ)れてしまい、このカーレースのゲーム機自体が廃棄(はいき)され、お菓子の世界の住民、そしてヴァネロペ自体も不幸になる!

というのが表向(おもてむ)きの理由です。


けれど、実は、別の理由があった。


ヴァネロペは王の妨害(ぼうがい)によって、窮地(きゅうち)に追い込まれるが、決して屈(くっ)しない勇気と行動、そしてラルフの助けを得(え)て、お菓子の国のカーレースに出場する。

ここでも、ヴァネロペをゴールにたどり着かせないように、王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。


それは、なぜなのか???


実は、「王」というのは偽(いつわ)りで、その王の正体(しょうたい)は、お菓子の国のゲームの世界を乗っ取った、 悪(あ)しき「ウイルス」 だからです。

この「ウイルス」である偽りの王によって、お菓子の国の世界は支配(しはい)され、
そのことによってヴァネロペは不具合となり、この世界から排除(はいじょ)された存在になっている。

ヴァネロペは、実(じつ)は、このお菓子の世界を元の世界に復活(ふっかつ)される重要な存在であり、ヴァネロペがゴールした時、この世界を復活させる 「何かが起こる!!」 ということです。

だから、ウイルスである「王」は、ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。

しかし、ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、ウイルスである王は敗れ、消えていく。

そして、ヴァネロペは、とうとうゴールにたどり着く!!

その時、いままでウイルスである王に支配されていたお菓子の国のゲームの世界に、劇的(げきてき)な変化がもたらされる。


ヴァネロペ自身も劇的に変化し、「女王」の姿(すがた)をあらわす。


実は、ヴァネロペは、お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!


そして、ウイルスによって記憶(きおく)を消されていた住民たちも、
記憶を取り戻し、女王に深く、お詫(わ)びをする。



考えてみると、不具合により皆から嫌(きら)われ、のけ者にされていたヴァネロペも、女王であるヴァネロペも同じ人物です。

ヴァネロペは、不具合で皆(みな)から嫌われ、のけ者にされている世界で、そのまま生きていくこともできた。

けれど、ヴァネロペは屈(くっ)せず、あきらめず、希望と勇気と挑戦によって、自分のいる世界を、自分が女王として堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。


人間も同じなのではないだろうか・・・!


仮(かり)に、今、自分がいる環境が、不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。

けれどその環境(かんきょう)は、アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、偽りの世界であり、ウイルスによって支配された環境だと考えることはできないだろうか・・・?

そう考えた時、今、自分が、かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、仮(かり)の姿であり、偽(いつわ)りの姿だと考えることはできないだろうか・・・?

そして、ヴァネロペのように、希望と勇気と挑戦によって、道を切り開きゴールした時、自分の世界が、自分が、王者のように輝(かがや)く環境へと変わっていくと、
とらえることができないだろうか・・・?


創価学会(そうかがっかい)が実践している仏法(ぶっぽう)では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則(ほうそく)を説いています。

「一念三千」とは、一念(いちねん)、すなわち心(こころ)の違いによって三千の違(ちが)う世界ができあがる!という生命の法則です。

三千の心の違いによって、未来の世界は、それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。

自分の心によって、世界が変わり、自分の心に合った世界が、そこに存在していくことになる。

ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、人は三千の違う世界の中から、自分の心で、そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!と、とらえることができます。

その三千の世界の中には、ヴァネロペのように、自分が、のけ者にされ、蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている世界もあるかもしれない。

また、これもヴァネロペのように、自分が女王、あるいは王のように、堂々と生きている世界もあるかもしれない。


一念三千の法則から考えるならば、
人は、自分がいく世界を、自分の心によって選んでいる・・!!


と言えます。


楽観的(らっかんてき)にポジティプに考えれは、人は、未来の三千種類の世界の中から、自分が行く世界を選ぶことができる!!と、とらえることもできます。


それが、生命における『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。



確かに、未来はわからない・・・。

未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。


不幸になる可能性も、
幸せになる可能性も・・・。


それを選び、つかむことのできる法則が、先程(さきほど)から話している「一念三千の法則」ですが、この、「一念三千の法則」を、

いったい? どうやって使っていくのか・・??

どうやって、自分の人生に生かしていくのか?

そして、この「一念三千の法則」を、どうやって、ものにし、人生を勝利していけるのか・・・?


それが、問題です。


実は、この「一念三千の法則」を、現実に動かし、現実に結果を出し、現実に幸せになっていける、究極(きゅうきょく)の力であり方法が、創価学会(そうかがっかい)が実践している、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、となえる、仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


けれど、おそらく、だれでも思うのではないか?と思うのが、いくら一念三千の法則を説(と)いても、そんなものは、単(たん)なる机上(きじょう)の空論(くうろん)にすぎないのではないか!ということです。


問題は現実だからです。


現実を変えられなければ、何の意味もない。


現実の悩みを解決できなかったら、そんなものは、よくある言葉の遊びでしかない。


そして、現実の夢や希望を、かなえていけなかったら、いったい、一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。


けれど、創価学会が実践(じっせん)している南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰(しんこう)は、言葉の遊びではない!!


『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、現実を変える、ものすごい力(ちから)なんです。

南無妙法蓮華経は、一念三千の法則を現実のものとする
『秘宝(ひほう)』なんです。

幸せをつかむ究極の法則であり、未来を幸せに変える究極の力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』なんです。

だから、創価学会の、南無妙法蓮華経を
となえる仏法(ぶっぽう)を実践していった時、


自分の世界が、環境が、大きく変わっていく。


自分自身の境涯(きょうがい)が、大きく変わっていく。


そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!



昔、アンドレイ・タルコフスキー監督の『惑星(わくせい)ソラリス』という映画を見ました。

その世界では、自分が深く思い願っている存在が、現実の姿(すがた)をして、具現化(ぐげんか)され、あらわれてきてしまう。

すでに自殺して亡(な)くなり、いるはずのない妻(つま)が具現化し、さまよい、主人公は苦しむ。

その果(は)てに、自分が子供のころから、愛してやまない故郷(こきょう)、地球の、我(わ)が家と家族、その土地と自然が、惑星ソラリスから、出現(しゅつげん)してしまう・・・。


この物語は、SFの架空(かくう)の物語ですが、人間の『一念(いちねん)』には、
「こころ」を、具現化していく力(ちから)が、あると思う。


人は、自分の夢や希望、願いを、現実に、実現してきた・・。

それは、人間のこころには、夢や希望を、実現していく力が、
『ある!!』 ということです。

そして、その、人間の『こころ』の力が、明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、
夢や希望が、かなっていく・・・!!

しかし、その「こころの力」が、不明瞭(ふめいりょう)で、さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、発揮されなくなってしまっている。

そのために、さまざまな苦しみや悩みが生(しょう)じて、人は、不幸に沈(しず)んでいく・・・。


そう、言えると思います。


しかし、「こころ」における、さまざまな障害や不純物が、取り除(のぞ)かれたならば、「こころ」は、力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、夢や希望が、かなっていく。


それが、「こころの力」ではないかと、思われる。


そして、「こころ」から、障害や不純物を取り除き、こころの力を、無限大に発揮していく力が、さきほど話した、 「南無妙法蓮華経」 です。

そして、南無妙法蓮華経の力によって解放(かいほう)された、「こころの力」によって、惑星ソラリスのように、幸せの世界が出現してくる。

ヴァネロペのように、貧(まず)しい姿から、女王の姿を、あらわす。


それが、南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経を、となえることだと、思います。




昔、創価学会は、貧乏人と病人の集まりだと言われた。


その人たちが、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を実践することによって、どうなっていったかといえば、貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、病人は健康になっていった。

そして、ことごとく、創価学会の人たちは、幸せになり、人生を勝利していった。

それは、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、自分が、のけ者にされ蔑(さげす)まれている世界にいたヴァネロペが、女王となり、その世界を幸せに変えていったのに似(に)ている。


そういう変化を、現実のうえで可能にしてきたのが、創価学会だとも言えます。


いまでは、創価学会は世界192カ国に広がり、その世界中の人たちの悩みを解決し、夢や希望をかなえる大きな大きな力となって、その人たちの環境を変え、自分を変え、その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。


たとえば、道が何本にも分かれた分岐点(ぶんきてん)があるとする。

そして、その道の先(さき)に何があるか、すべて見えているとします。

そうしたならば、人は、わざわざ自分が不幸になる道を進みはしない。


自分が行きたい道、自分が幸せになる道、自分が勝利していける道を、進むでしょう。


ところが、人は人生の道の先に、何があるか、わからない・・。

だから、途方(とほう)にくれたり、あきらめたり、絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。


そして、敗れていく人も多くいる・・・。


創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰は、いくつも分かれた道の先に、何があるのか、見えているのに似(に)ている。

見えていれば、幸せになる道を進んでいける。
不幸になる道を避(さ)けることができる。


そして自分の夢や希望をかなえて勝利していける。


そういう生き方ができるのが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。


もちろん、幸せになっていくために、さまざまな努力、挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。

また、アニメ「シュガー・ラッシュ」のヴァネロペのように、それを妨(さまた)げる、さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。

ある意味、幸せにさせまいとする、さまざまな勢力(せいりょく)が自分の前に立ちはだかることもあるかもしれません。

けれど、ヴァネロペのように、希望を持ち続け、勇気と挑戦によって、立ちはだかる苦難(くなん)を乗り越えていったとき、必ず幸せになっていけるのが、創価学会の信心です。

また、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践していくことによって、自分の中から自然(しぜん)に、その「勇気」と「希望」を湧(わ)き上がらせていくことができる!!

その、自分の中から湧(わ)きあがってきた勇気と希望によって、どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え、勝利していけるようになっていく!!


その大元(おおもと)のエネルギーが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。



南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、環境とか境遇(きょうぐう)とか、運命とか宿命とか、それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の上にある力(ちから)であり法則だと言えます。

運命や宿命(しゅくめい)、軋轢(あつれき)や障害の、『上』にある力であるがゆえに、悩みや困難(こんなん)を乗り越え、夢や希望を、かなえていく力(ちから)が、ある!!
ということです。


それが、『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと言えます。


たとえば、話しのよくわかる、良い社長がいたとします。

会社内に、さまざまの問題があり、ある社員が悩(なや)んでいる。

同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、さまざまな思惑(おもわく)や軋轢(あつれき)があって、まったく解決しない。

けれど、その話しのよくわかる、良い社長に話し、訴(うった)えていったなら、希望や要望(ようぼう)がかなっていく可能性が高い。


今度は、ブラック企業(きぎょう)で、社長も、頑固(がんこ)で、話しのわからない社長だったとする。

けれど、その国の王がいて、その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、善良(ぜんりょう)な王だったとする。

その優秀な国の王に、問題を訴え、伝えることができたなら、国が動き、ブラック企業の問題が解決できる可能性(かのうせい)もでてくる。


こんどは、国の王も、暴君(ぼうくん)で、どうしようもないような王だとする。

しかしその国の王の上には、 「宇宙(うちゅう)の王」 がいて、その宇宙の王は、
大変、優秀で、ものわかりの良い、素晴(すば)らしい王様だったとする。

宇宙の王から見れば、地球の一国の王など、小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。

だから、その素晴らしい宇宙の王に話しを伝え、訴えることができたなら、宇宙の王が動き、暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、民衆の希望や願いが、かなっていく可能性も強くなる。


その『宇宙の王』が、
南無妙法蓮華経であり
南無妙法蓮華経の力だと、
たとえることができます。


だから、南無妙法蓮華経をとなえることは、願いや祈りを、宇宙の王に伝え、訴えることになり、宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、考えることができます。


宇宙の王に訴え、宇宙の王を動かすのだから、
願いや祈りが、かなわないわけがない!!!


宇宙の王は、地球のちっぽけな王とは比(くら)べものにならないほど広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、考えられます。

その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、さまざまな悩みや問題も、悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、思われる。

それが、

『南無妙法蓮華経を、となえる』

ことだと、たとえることができます。



ヴァネロペは、あきらめなかった。

絶対に負(ま)けなかった。

絶対に希望を捨てなかった。

それと同じように、南無妙法蓮華経を、となえることによって、絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を湧(わ)き上がらせていくことができる。

その「生命力」は、強い強い「心(こころ)」、希望の心、幸せの心となって、その人の人生を開花(かいか)していく。

その生命力、強い強い心は、悩みを解決し、困難を乗り越えさせ、夢や希望をかなえる力(ちから)となっていく。

さきほど話した、「一念三千の法則」によれば、その強い強い心、幸せの心によって、
世界が幸せに変わっていく。


自分にとって、希望に満(み)ちた世界に変わっていく・・・!


それが、創価学会の、南無妙法蓮華経をとなえる、「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。


それはあたかも、アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、ヴァネロペが、虐(しいた)げられ、のけ者にされている世界から、自分が女王となり、堂々(どうどう)と生きていく、
幸せと希望の世界に、変えていったように・・・!!


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