ひまわりの種246 [祈り]

池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
『なぜ、祈りが叶(かな)うのか』
について語っています。

『私たちは、無宗教を自称(じしょう)する人も、何かを心から願っている。何かを心の底(そこ)で祈っている。
これらを、宇宙の法則(ほうそく)のうえから、祈りと現実がきちんと合致(がっち)していくようにしたのが、仏法(ぶっぽう)の祈りです。

小さなギアでも、大きなギアと、きちっと噛(か)み合わせれば、すごい力(ちから)が発揮(はっき)できる。
同じように、「小宇宙」の自分自身が、「大宇宙」の生命と、きちっとギアを噛(か)み合わせていけば、どんな悩みも乗り越(こ)えられる無限のパワーが出るのです。』

たとえ、無宗教と自称(じしょう)しているような人であっても、何かを願っている。
それは、心の底で、何かを祈っているということです。

そこから、さまざまな行動が生まれ、さまざまな人生が形成(けいせい)されていく。

心の底にある『祈り』は、やがて、その人に、さまざまな影響を与(あた)え、さまざまな希望となって、その人の人生を彩(いろど)っていく。

だから、『祈り』というのは、人間の中に必然的(ひつぜんてき)に存在していて、必然的に、その人の中から、わき上がってくるものだと、言えると思います。

だからといって、祈りだったら、なんでも良いかというと、そういうことでもない。間違(まちが)ったものに祈るということは、自分が祈りをかなえたくて祈っているにもかかわらず、祈りがかなうどころか、逆に、間違ったものに祈っているので、その人に、さまざまな形で悪影響を与(あた)え、 間違ったものに祈ったという結果として、さまざまな形で、その人に不幸をもたらしてしまう。

だから、祈りだったら、なんでも良いということではなく、間違ったものに祈るということは、不幸をもたらす原因になってしまう。

その間違った宗教と言えるのが、日本にはびこっている葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰です。

だから、正月などに、それらの宗教に、どんなに真剣に祈ったとしても、逆に不幸になる原因をつくることになり、さまざまな形で、不幸が出現してきてしまう。

それが、世間一般的に考えられる宗教です。

池田先生が言っていますが、小さなギアでも、大きなギアと噛(か)み合うと、すごい力を発揮できる。
それと同じように、小宇宙と言える自分自身の生命と、大宇宙という大きな生命が、きちっとギアが噛み合ったとき、どんな悩みも解決していける無限のパワーがでてくる。

その時に、祈りがかなう方向に進んでいけ、やがて祈りが、かなっていく・・!

それができる真実の祈りが必要であり、その自分自身の生命のギアと大宇宙の生命のギアが、がっちり噛(か)み合い、幸せの方向に、すべてを動かしていける力(ちから)ある祈りが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の祈りなんです。

だから、すごいんです!
だから、悩みや問題を解決していけ、だから、夢や希望をかなえていけるんです。

それが、創価学会の祈りなんです。

いわば、世間一般的な祈りは、自分の祈りと大宇宙の生命のギアが、決して噛(か)み合ない、空回(からまわ)りの祈りです。
だから、祈りはかなわないし、逆に間違ったものに祈っているので、不幸を引き起こす原因になってしまう。

それに対して、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえて祈る『祈り』は、自分の祈りと大宇宙の生命のギアが、がっちり噛み合い、まるでサーフィンで波にのるように、楽しく、悠々(ゆうゆう)と幸せをつかみ、勝利していける。

そういう本物の祈りが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる『祈り』なんです。


最初に話したように、たとえ無宗教を自称しているような人でも、何かを心から祈っている。

本当は、何かを心の底で祈っている。

その本源的(ほんげんてき)な祈りを、現実の形にして、現実に祈りをかなえていける、また、悩みや問題を解決していける、また、夢や希望をかなえていく大きな力(ちから)となるのが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!


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