ひまわりの種111 [幸せ]

もし、『幸せの種(たね)』があるとしたら、だれでも自分の中に植(う)えたいと思う。

その考えかたは、人さまざまで、ちょっとした真心であったり、希望であったり、愛情であったり、人に幸せを感じさせるものが、『幸せの種(たね)』だと言えるかもしれません。

けれど、それらは、決定的なものではなく、心が感じるイメージであったり、雰囲気(ふんいき)であったり、なかなか永遠に残るようなものでは、ないかもしれません。

だから、一般的な考え方からくる『幸せの種』は、永続的なものにはならず、ひとつの理想、イメージの域(いき)を、抜(ぬ)け出ていないと言えるかもしれません。

けれど、本当の意味で、『幸せの種』と言えるものが、存在する!!

その本当の意味での『幸せの種』が、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。


この創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法の信仰は、真実の『幸せの種』なんです。

だから、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)の信仰を始めるということは、自分の生命に『幸せの種』を植(う)えたことに、なります。

種(たね)が成長すれば、芽(め)が出て、花が咲(さ)き、果実(かじつ)が実(みの)るように、この創価学会の南無妙法蓮華経の仏法の信仰という『幸せの種』が成長していけば、必ず、『幸せ』になり、かならず夢や希望を、かなえて、『勝利』の実を結(むす)ぶ!ということです。

必ず、そうなるから、南無妙法蓮華経の仏法は、『幸せの種』なんです。

もちろん、種を成長させ、花を咲(さ)かせ、実を結ぶには、当然、努力が必要です。
毎日、水も、やらなくてはいけいなし、肥料(ひりょう)も与えなければならない。雑草も取らなければならないし、日光にもあてなければならない。ときには、台風や暴風雨に苦しむこともあるかもしれないけれど、それらの苦難を乗り越(こ)えていったとき、やっと、花を見ることができ、実を結(むす)ぶこともできる。

それと同じように、南無妙法蓮華経の仏法という生命に植(う)えられた種(たね)を、成長させるのにも、努力が必要です。もっとも大切な幸せの種なんだから、その幸せの種を成長させるためには、ひとしきり努力も苦労もあるかもしれません。けれど、その幸せの種が成長すれば、必ず、幸せと勝利という花と実が、結実(けつじつ)していくんです。

それが、南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)なんです。

草花に水と光が、必要なように、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法という幸せの種にも、水と光が必要です。

その水の役割をするのが、『ご本尊(ほんぞん)に南無妙法蓮華経を、となえる!』
ということです。
(ご本尊(ほんぞん)とは、仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあり、その自分自身の生命に、必ず幸せになることのできる仏(ほとけ)の生命が、そなわっていることを、あらわしたものが、ご本尊です。)

そのご本尊(ほんぞん)に、南無妙法蓮華経を、となえるということは、自分の生命の中に植えられた『幸せの種』を、成長させることになります。真剣に南無妙法蓮華経を、となえていけば、いくほど、『幸せの種』は成長し、幸せが大きくなっていくということです。

そして、光の役割をするのが、創価学会です。

どんなに水をあげても、光に当(あ)てなかったら、草花は、枯(か)れてしまいます。それと同じように、幸せの種を、成長させるためには、どうしても、創価学会という『光』にあてる必要があります。
創価学会は、草花を開花させる太陽のようなものなんです。

だから、どうしても、創価学会という、幸せの種を成長される存在が、必要になります。

かりに、どんなに南無妙法蓮華経を、となえたとしても、創価学会から離れると、幸せにはなっていきません。もちろん、となえないより、となえた方が良いですが、やっぱり、それだけでは、幸せにはなっていきません。

南無妙法蓮華経という生命の中の幸せの種を、成長させるためには、幸せの太陽と言える『創価学会』の組織について、創価学会の中で活動し、そして 、幸せになるための水やりと言える、『南無妙法蓮華経を、となえる信心』を、やっていく必要があります。

この両方があって、生命に植えられた『幸せの種』は、成長します。
そして、かならず、勝利と幸せの結果を、生み出すことができます。

それが、創価学会という場所であり、生命に植えられた幸せの種を、成長させ、幸せの実を結ぶ、南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰なんです・・・!


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