ひまわりの種309 [日常]

以前、日本の宗教研究の権威(けんい)であるという方が、ラジオで、日本の一般的な宗教について、語られていたのを聞いたことがありますが、その内容(ないよう)の、あまりものくだらなさに、呆(あき)れ返(かえ)ったことがありました。

けれど、それは、その宗教研究家が悪いのではなくて、日本の一般的な宗教が、あまりにもくだらないので、どんなにがんばっても、どうしても、くだらない話ししかできない!ということです。

だから、他のだれが話したとしても、くだらない話ししか、できなかったでしょう。

それに、ただ、くだらないだけならいいのですが、そのような、くだらない、でたらめ、まやかしの宗教というものは、根本(こんぽん)からして、まやかしの間違(まちが)った宗教ですから、真剣に祈れば祈るほど、逆(ぎゃく)に、間違ったデタラメの結果として、 その人にさまざまな不幸をもたらす結果になってしまいます。

間違ったデタラメの宗教に祈るということは、その間違ったデタラメの宗教に、自分の生命を人生を、ゆだね、ささげていくことになります。間違ったデタラメの宗教に、自分の生命と人生をゆだね、ささげていったなら、当然(とうぜん)の結果として、自分の生命と人生は、デタラメの間違ったものになっていきます。自分の生命と人生が、間違ったデタラメのものになっていったなら、その結果として、さまざまな不幸が、もたらされてしまいます。

それが、間違った宗教というものです。

そして、その間違った宗教が、日本の葬式仏教(そうしきぶっきょう)や神社信仰、観光宗教などです。


そして、もう一つ言えることは、たとえ宗教研究家であっても、現実に幸せという結果がでる宗教、悩みや困難(こんなん)を解決していける、『本物(ほんもの)の宗教』をやったことがなかったら、真実と確信のある話しは、できない!!ということです。

たとえば、どんなにリンゴの成分(せいぶん)を語り、細かく分析(ぶんせき)したとしても、リンゴのおいしさは、わからない!ということです。

リンゴの成分について、長々と語るよりも、リンゴをひとつ取って、「ガブリ」と食べてみなかったら、そのおいしさは、わからないと、いうことです。

現実的な人間にとっては、研究も大切かもしれませんが、食べてみて、おいしいか?まずいか?という現実の結果が大切であり、その、実際に味(あじ)わうことのできる現実がなかったら、なんの意味もなさないということです。

現実においしいのか、どうか?、その結果が、現実の人間にとっては、とても大切だということです。

そして、その、現実に結果のでる、悩みや問題を解決していけ、夢や希望をかなえて幸せをつかんでいける、真実の宗教と言えるのが、創価学会(そうかがっかい)の、南無妙法蓮華経をとなえる、仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。

そして、その現実に幸せという結果を出していける、真実の仏法(ぶっぽう)の信仰を実践(じっせん)していった時、あらゆるものが見えてくる。あらゆる事象(じしょう)がわかってくる・・と言えると思います。

根本(ほんぽん)になるものが、わかっているから、そこから、すべてを説明でき、理解していけるということです。

それは、人生という道にも通(つう)じ、自分は、どうしたらいいのか、どうしたら幸せになるのか、どうしたら、自分の希望をかなえていけるか、その道が、明確にわかってくる。迷(まよ)わない! 

だから、勝利していける。視野(しや)が開けていく!希望が見えてくる!そして、勇気が湧(わ)いてくる!!

幸せをもたらす、大元(おおもと)の法則(ほうそく)がわかっているから、希望がある!怖(おそ)れない!負けない!


それが、現実に結果の出る、悩みや問題を解決していける、夢や希望をなかえる大きな力(ちから)となっていける、法則であり、本物の宗教と言える、創価学会の、南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)をとなえる、仏法の信仰なんです・・・!


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