ひまわりの種302 [幸せ]

ぼくは、創価学会員だから、普通に聖教(せいきょう)新聞を、読んでいる。創価学会員がみんな、必ず聖教新聞を読んでいるわけではないけれど、一般的に、真面目に創価学会(そうかがっかい)の信心をやっている人は、聖教新聞を読んでいる。

なぜ、聖教新聞を読むのかと、自分に問いかけてみると、それは、自分が「幸せを求めている」からだと思う。

もし、ぼくが、幸せを求めていなかったら、聖教新聞は、読まないでしょう・・・。

そう考えてみると、聖教新聞は、「幸せ」にポイントと重点を置いた新聞であることが、わかる。

普通、新聞というと、その時々にあった事件や出来事や話題などが、のっている。また、それだけではなく、その新聞独特(どくとく)の解釈(かいしゃく)というか、それぞれの新聞に思想性(しそうせい)があり、傾向性(けいこうせい)がある。

この新聞はあっちよりの傾向があり、あの新聞はそっちよりの傾向があったりする。よく言うように、思想的に、右よりだとか、左よりだとかと表現することもできる。

こっちの新聞は反対だと言い、あっちの新聞は賛成だという場合もある。同じ物事にも、さまざまな考え方があり、それはそれで当然(とうぜん)だと思う。

細かい部分から言えば、新聞には思想の対決のような部分もあるかもしれない。
一方は反対、もう一方は賛成。それは当然、それが良いと判断(はんだん)して書いてあるのだけれど、その賛成と反対の狭間(はざま)で、時として、置(お)き去(ざ)りにされてしまうものがある。

それが、「人間の幸せ」だと思う。

特に、庶民(しょみん)の幸せ。決して、新聞にはのることのないような、名もない民衆たちの幸せ・・。

この名もない民衆たちの幸せが、置き去りにされてしまう場合がある。

逆に言えば、どうしようもないからだと言うこともできる。世の中に埋(う)もれているような、庶民たちを幸せにできる方法や手段(しゅだん)が見当(みあ)たらないし、またそれらの人々の悩みや苦しみを解決する確実で具体的な方法もない。だから、それらの名もない民衆たちの幸せが、新聞にのることは、あまりない・・・。

また、有名人や著名人(ちょめいじん)の死や、それにかかわる病気について、新聞にのることはあっても、その大変な病気や障害(しょうがい)を乗り越(こ)え、蘇生(そせい)していった話しも、あまり新聞に乗る事がない。

それは、当然であり、どんなに有名であろうと、財力(ざいりょく)があろうと、困難な病気を乗り越え、勝利した話しなど、ほとんど無いからです。 だから、そういう蘇生(そせい)のドラマが新聞にのることも、あまりない。

ところが、聖教新聞には、いま、上げたような、普通、新聞にのることのない物語、ストーリー、ドラマが、ことごとく、のっている。それは、大変な病気を乗り越え、勝利していった物語であり、経済的にも大変な苦境(くきょう)を勝ち越え、幸せを勝ち取った物語であり、また障害(しょうがい)を乗り越え、蘇生(そせい)していった物語でもある。また、他の新聞では決して、のることのないような、名もない庶民たちの勝利と幸せの凱歌(がいか)が高らかに歌われているのが、聖教新聞だと言える。

それは、まぎれなもない現実の結果であり、元(もと)を正せば、歴史の上でも、だれも、どうしようもなかった、民衆の幸せ、名もない庶民を、現実に幸せにしていける法則(ほうそく)と哲学(てつがく)が、創価学会の、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰にはある!!ということです。

ゆえに、現実の科学的な証拠(しょうこ)として、数えきれない多くの民衆の幸せを、新聞にのせることができる。また、それだけの希望を生み出す力(ちから)が、聖教新聞にはある!ということもできます。

普通だったら、決して新聞にのるようなことはなかった、名もない民衆の勝利と幸せ・・!

その民衆の壮大(そうだい)な叙事詩(じょじし)。その民衆の勝利の歌が、聖教新聞なのかもしれない。

だから、聖教新聞は、『幸せを求める人』が読む新聞だと思う。
そして、『幸せになる答え』が必ずある!のが、聖教新聞だと思う。
また、これほど、人間に、ひとりの人間に、民衆に、希望を贈(おく)ることのできる新聞もない!と思う。

だれも、表立(おもてだ)って言ったりしないかもしれないけれど、探し求めている『幸せの本質(ほんしつ)』
そして、幸せという現実の結果・・!

その『幸せの本質』と『幸せという結果』に、真(しん)に、具体的に、現実的 に、直結(ちょっけつ)している新聞が、聖教新聞だと思う・・・!


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