ひまわりの種77 [生命]

人生、長く生きていると、『死にたい』と思うことが、一度や二度は、あるかもしれない。それは、きっと、『死』によって何かから、解放(かいほう)されると思っているからだと思う。

それは、浅(あさ)はかな、浅薄(せんぱく)な生命観から、来ているんだと思う・・・。

そこで 、生命の永遠性について、考えていきたいと思います。

死んだら、どうなるのか?死んだら、きれいさっぱり、無くなって楽になるのだろうか?

仏法では、『永遠の生命』を、説(と)いています。
永遠の生命といっても、幽霊(ゆうれい)や霊魂(れいこん)のようなものが、残るわけではない。仏法で説く永遠の生命は、そういう形の残るものではない。

けれど、かといって、なんにも無くなるか?というとそうではなく、死んでも、自分の生命の核(かく)といえる我(が)という存在は残り、宇宙に溶(と)け込(こ)んでいく。そして、宇宙に溶け込んだ生命は、あるとき、なにかの縁(えん)によって、フッとまた生きた生命として、誕生していく。人が疲れたら、眠り、そして朝、起きるように、疲れた生命は、休まなければならない。
そして、元気な生命として、また、誕生していく。

だからといって、まったく生まれ変わるということではない。自分がいままで生きてきた喜び、歓喜(かんき)、悲しみや苦しみという自分を形成してきた核(かく)である、その人の境涯(きょうがい)ともいえるものは、そのまま残り、その境涯のまま、宇宙に溶(と)け込んでいく。

だから、たとえば、ものすごい苦しみを持って死んでいった生命は、死んでも、そのものすごい苦しみを持った生命として宇宙に溶け込んでいく。歓喜して幸せそのもので、死んでいった生命は、その歓喜と幸せそのものの状態で、宇宙に溶け込んでいく。

だから、永遠の生命から考えると、死んでも、その人の境涯を、そのまま、持ったまま、宇宙に溶け込んでいくことになります。歓喜と幸せをもって生きた生命は、歓喜と幸せの生命として、宇宙に溶け込み、地獄の苦しみをもって生きた生命は、地獄の苦しみを持った生命として、宇宙に溶け込む。

だから、仏法では、自殺は、無意味だと説く。自殺したとしても、その地獄のような苦しみは、そのままで、永遠にその苦しみをもったまま、その人の生命は宇宙に溶け込み存在し続ける。また、自殺という悪い業(ごう/宿命[しゅくめい])を作ることになるので、また、なにかの縁(えん)で、人間として生まれてきたとしても、以前よりもっとひどい!地獄のような苦しみを味わい、以前よりもっとひどい、自殺したいような苦しみを味わうことになる。

だから、永遠の生命から考えると、自殺は、自分に最悪の業(ごう/悪い宿命・運命)を、つくるだけで、どんどん悪い境涯(きょうがい)の生命になっていくことになる。

そうすると、じゃあ、いったい、どうしたらいいんだ?という問題に、たどり着く。永遠の生命から考えたとしても、自分の悪い宿命や運命を、断ち切り、幸せになっていける方法が、求められる。

その永遠の生命の上からも、悪い宿命や運命を、断ち切り、必ず幸せになっていける方法が、創価学会が、実践している南無妙法蓮華経を、となえる、仏法の信仰なんです!

永遠の生命の上から、ひとりの人間を、確実に幸せにしきる方法は、この創価学会の南無妙法蓮華経の仏法によるしか、ありません。これだけは、他の何をやっても、だめです。

だからこそ、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法を実践すると、いい知れない歓喜と充実感、満足感を味わう事ができ、あらゆる悪い宿命を、打ち破ることができるからこそ、どんな困難も乗り越えて、幸せになっていけるんです!

そして、その幸せは、その場かぎりのものではなく、永遠に続く、永遠の生命の上での幸せとなっていき、その人の人生を、かざっていきます。

その永遠の生命の上での幸せを勝ち取った証拠(しょうこ)として、今、現在、生きている人生において、夢や希望が、かなったり、悩みや困難が、解決できたりして、今現在の人生を、勝利し幸せになっていけるんです!

だからこそ、永遠の生命に立脚(りっきゃく)した、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法が、世界中で、求められ、また、必要になっていくことになります。


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